若者における移動体通信メディアの利用と家族関係の変容
――「ケータイ」される家族関係のゆくえを探る
1.はじめに ~問題の所在
2.戦後日本の家族関係の変容
3.親子関係と移動体通信メディア利用の関連
4.結びに代えて
註 / 文献
1.はじめに ~問題の所在
高校生の「プチ家出」が騒がれだしたのは、「ケータイ」の普及が彼ら彼女らの年齢層にまでおよぶようになった1990年代末である。プチ家出とは、数日から一週間ほどの短いあいだ、親に無断で友人の家やゲームセンターなどの娯楽施設、場合によっては路上を泊まり歩くことを指す。このプチ家出は、非行や犯罪の温床として問題にされることが多いが、ここで論じたいのはそのことではない。本稿が注目したいのは、そこに象徴的に映しだされている、現在の日本社会における家族のすがたである。
プチ家出は、親と縁を切るための(本格的な)家出とは異なり、短期間で家に戻るつもりが本人にある。実情としては家出というより無断外泊であり、その意味で(しばしば誤解される点ではあるが)少なくとも完全に親子関係を断とうとするものではない。親との関係をとりあえずは──放棄しないという消極的な意味で──保ちつつも、その拘束から逃れるための方便がプチ家出であると言っていいだろう。
束縛されないだけの距離をおきつつも、完全に断ち切れてしまうことのない親子関係。そうした緩やかなつながりを可能にしているのが「ケータイ」、すなわち携帯電話・PHSなどの移動体通信メディアである。プチ家出の際、彼ら彼女らは一応「今晩は○○ちゃんのところに泊まるから」と親に電話をかける(そして一方的に切る)ことが多いという。捜索願などを出されないだけのアリバイは作っておくわけだ。親からの電話はケータイの着信番号表示でわかるから、出たくなければ出ずにすませることができる。一方、親の方にもいざとなれば携帯電話で連絡がとれるという安心感があるために、子どもの行動をあきらめまじりにであれ許容してしまう。
一晩泊めてくれる友人やいっしょにすごしてくれる友人を見つけるときにも、携帯電話は重要な役割を果たす。プチ家出は、家にいると「ウザイ」からといった安易な気分でなされるものだ。かつての家出のように、計画的な準備や路頭に迷ってもかまわないくらいの覚悟が要求されるとしたら、それがハードルとなってほとんどのプチ家出はおこなわれないだろう。だが携帯電話があれば、一晩泊めてくれないか、指先ひとつで友人に聞いてまわることができる。そしてまた、そうしたケータイ・ネットワークを利用して、1人だけに負担をかけることなく、そのときどきに都合のいい友人や知り合いを見つけだして泊まり歩くことができる。そのことがプチ家出のハードルを低くしているのである。
若者たちは今や「ケータイ」に人間関係そのものをたずさえて街をわたり歩く。彼ら彼女らの携帯する家族関係は、従来のような生活の場(物理的空間・時間)を共にすることを前提としたものではない。寝食を共にする家族という体裁は、それだけでそこに何かしらの関係、「家族の絆」があるような気をおこさせる。ばらばらに食事をとり、大半の時間をそれぞれの個室ですごし、会話らしい会話などほとんどないのが実情だったとしても、“生活の場を共有しているのだから、その気になればいつでも食事や会話を共にすることができるはず”と思いこむことができたのである。しかしプチ家出は、そうした可能性だけの絆なら携帯電話があれば事足りることを──すなわち、物理的共在性が大きな意味をもたなくなった電子社会の家族関係のすがたを──露骨に象徴してみせる。その露骨さに「世間の良識」は眉をひそめるわけだ。だが、共在する家族から関係する家族へという流れが現代の社会変化に必然的にともなうものだとすれば、求められるべきは旧態依然とした「良識」をふりかざすことではなく、まずきちんと変化の実態を見きわめ、それに即した政策や制度を考案していくことではないだろうか。
本稿はこのような問題意識にもとづき、若者における家族関係の現状を、特に移動体通信メディア利用との関連において把握することを目的とする。つづく2節ではまず、いくつかの社会調査のデータからこれまでの家族関係の変化の動向を大局的に見わたす。3節では、16~17歳を対象に筆者がおこなった調査のデータを用いて、親子関係と友人関係を対比しつつ、それらと移動体通信メディア利用との関連を分析し、「ケータイ社会」の人間関係について考察をくわえる。
2.戦後日本の家族関係の変容
前節でとりあげた「プチ家出」は、携帯電話の普及が原因となってひきおこされたわけではない。それ以前から一定の家族関係の変化が底流にあり、携帯電話の普及はそれを表面化させるきっかけになっただけだ。では、底流にあった変化とはどのようなものか。それは、一般論・印象論としてよく言われるような、家族の絆の衰退とは異なり、確かに一面では家族の個人化が進みつつも、他面では家族志向がむしろ高まりをみせるという、相矛盾した双貌をもつ──かのように思えるのは実は表面的にすぎないのだが──変化だった。社会調査のデータをまじえながら、その変化をおおまかに跡づけていこう。
日本において家族構成が最も大きく変化したのは高度経済成長期である。図1は、総務省統計局による『国勢調査』をもとに、普通世帯における世帯人数の構成比の時系列変化を表したものだが、1955年以降、6人以上の多人数世帯が急速に減少し、代わって少人数世帯が増加している。いわゆる核家族化である。この時期、産業構造の重心が一次産業から二次・三次産業へと移行したのにともない、農村部の若年人口が都市部へ移動していった。彼ら彼女らが農村部に残った親世代から離れて自らの家族をいとなみ始めたことで、世帯人数が減り*1、家族の「都市化」が全国規模で進んだのである。
図1 世帯人数の変化(普通世帯における構成比)
それとともに、伝統的な「イエ」意識も低下していく。統計数理研究所の『日本人の国民性調査』には、「子どもがないとき、養子をもらって家をつがせるか」という設問があるが、「つがせる」という肯定回答は1953年の74%から73年には36%と半減、その後も徐々に下がりつづけ、98年には22%となっている(統計数理研究所[1999])。また、老後における子どもや孫との同居志向もやはり下がっている。データとしては比較的新しいところしかフォローできないが、NHK放送文化研究所の『日本人の意識調査』によれば、老後の生きかたとして「子どもや孫といっしょに暮らす」が選ばれる比率は、73年の38%から一貫して減りつづけて98年には24%となっている。それに代わって選択率が増えたのは、「夫婦で暮らす」「趣味をもって余生を送る」といった夫婦だけでの生活や個人の趣味を重視する生きかたである(NHK放送文化研究所[2000])。
高度経済成長期の産業構造の変化はまた、労働の単位を家族から個人へとシフトさせるものでもあった。それ以前の農村部では、夫(父)だけでなく、妻(母)もまた共に畑仕事などに従事する「働く女性」だったのであり、子どもも学校の勉強より親の手伝いを優先すべき労働力とみなされていた。二次・三次産業に従事する人口が増え、所得水準も向上するにつれて、夫は仕事場/妻は家庭という分業が進み、公的労働と私的労働(家事や育児)に分節されて、それぞれの労働単位が男/女に割りふられるかたちで個人化していく。そのなかで家庭は私的領域性を強め、労働の単位から情愛の単位へとその重心を移し、家族はもっぱら愛情によって結ばれるべきものとしてとらえられるようになる。こうした性役割分化と情愛性を前面化した家族のありよう自体はすでに明治末期‐大正期の都市中間層にみられたが、それが全国規模で一般化していったのがこの時期である*2。
しかし、産業社会の流れは、女性を家庭の内だけに押しとどめておくことなく、すぐに安価な労働力として家庭の外につれもどすことになる。男女の雇用機会均等という理念の浸透による女性単身者の「社会進出」もさることながら、女性有配偶者の雇用率も上がりつづけており*3(もちろんパートタイマーの比率が高い)、総務省統計局の『労働力調査』によれば2001年現在では37.2%、3人に1人以上の妻が雇用されている。ここで興味深いのは、女性有配偶者の“就業”率にはそれほどの変化がないことだ。つまり、農漁業や零細工場、小売商店などの夫とともに働く妻(家族単位型労働)の減少分と、夫と別に働く妻の増加分とが相殺されているのである。労働という側面からみれば、共同して働く夫婦→家庭の外で働く夫とそれを内でサポートする妻→家庭の外で別々に働く夫婦という過程を経て、夫婦の個人化が進んだと言うことができるだろう。
こうした変化は「理想の家庭像」にも反映している。前出のNHK『日本人の意識調査』では、4つの家庭像から最も好ましいものを選ばせているが、それらの選択率の時系列変化をプロットしたものが図2である。1973年から98年のあいだに、「父親は仕事に力を注ぎ、母親は家庭をしっかり守る」という“性役割分担”型は半減し、代わって「父親は家庭のことにも気をつかい、母親も温かい家庭づくりに専念」という“家庭内協力”型が倍増している。ここで注目したいのは、「父親も母親も自分の仕事や趣味にそれぞれ打ち込んでいる」という“夫婦自立”型の選択率の変化だ。この間に家族(夫婦)の個人化が進んだのだとすれば、この夫婦自立型の選択率が最も増えるはずに思えるが、実際には家庭内協力型に比べるとかなり鈍い伸びにとどまっている。これは家族変容の実態が、個人を家族に優先させるような意味での「個人化」とは、微妙に異なることを示すものだろう。
図2 理想の家庭像
最も大きく選択率の伸びた家庭内協力型は、家族の情緒的なつながりを重視する家庭像である。それは性役割分担型のように、各人を一定の役割に固定し、家庭(妻)に仕事(夫)を陰からサポートする従属的な位置づけを与えるものではない。家族のつながりをそれ自体として評価する家庭像だ。つまりそれは、「個人主義」「集団主義」に類比して言えば、個人より集団より人間関係それ自体にプライオリティをおく「関係主義」的な家族志向の高まりをおそらくは示しているのである。
確かに、労働という面では、先にみたとおり家族は「個人化」した。また、コンビニやファストフードの展開によって「個食」化が進み、それぞれの個室にテレビや電話が備えられることでメディア利用や娯楽活動のパーソナリゼーションも進んだ。ただし、「個人化」したのはあくまでこうした(労働や生活)行動の面においてであって、心理的な面では家族志向がむしろ高まっていることを示すデータがある。統計数理研究所の『国民性調査』では、「あなたにとって一番大切なもの」を自由回答方式でたずねているが、図3にみられるように“家族”と答える者が大きく増加しているのである(坂元[2000]より抜粋)。
図3 一番大切なもの
家族の「都市化」が進むことで、家族メンバーの労働・生活行動は個人化したが、それは家族の解体を意味するものではなく、むしろばらばらに行動する個人をつなぐ情愛の場として家族が性格づけられ強調される結果をもたらしたのだろう。そこでの家族の関係は、つながっていることそれ自体に価値をおくものであり、関係によって互いの行動が何かしらの束縛をうけることは厭われる。その点──行動(の束縛)という面──ではあくまで「個人主義」的なのであり、誤解されやすい関係変化なのである。
たとえば親子関係をとってみても、望ましい父親のありかたとして「子どもを信頼して、干渉しない」という“不干渉” 型が選ばれる率は1973年の15%から98年には22%に増えている(NHK放送文化研究所[2000])。また、総務庁の『青少年の連帯感調査』では、子どもに厳しく接する“厳格”型と子どもの自由に任せる“放任”型を対比して望ましい両親像をたずねているが、ここでもやはり、放任型の母親像の選択率は70年の51%が90年には62%に、父親像では40%が49%に増加している*4(総務庁青少年対策本部[1995])。一方で、この間に母親・父親との会話頻度は減ったわけではなく、せいぜい横ばいか、むしろ漸増傾向にあり、また、「家庭について悩みや心配事があるか」という設問に「全然ない」と答えた者は、70年の16%から90年には49%にまで増加している。つまり、親子関係における非束縛性への選好は強まったのだが、親子の会話(つながり)が忌避されるようになったわけではなく、家庭の居心地が悪くなったわけでもない、ということだ。
こうした非束縛的関係への選好の高まりは、実は家族関係だけでなく人間関係全般についてみられる。図4は、望ましい親戚づきあいに関する回答の経年変化を表したものだが(NHK放送文化研究所[2000])、「なにかにつけ相談したり、たすけ合える」ような“全面的”なつきあいを望む者が減り、「気軽に行き来できる」くらいの“部分的”なつきあいや「一応の礼儀を尽くす」程度の“形式的”なつきあいを望む者が増えている。同じ傾向が職場でのつきあいや近所づきあいに関しても確認されている。おそらくは高度経済成長を境に、人間関係一般に都市化──非束縛化──が生じたのだろう。
図4 望ましい親戚づきあい
産業構造の変化にともなう農村型共同体(「ムラ」「イエ」)の解体によって、いわばそれまで集団のなかに埋もれていた個人とその関係が浮上することになり、また、人間関係全般に「都市化」がうながされることとなった。そこでは、つながること自体への積極性とつながりに束縛されることへの消極性が拮抗しながら表裏一体となっている。近年になって急速に普及した携帯電話──人間関係の「情報化」という新たな契機──は、その拮抗を調停する性格をもっていた。携帯電話があれば、いつでもどこでもつながることができる。それゆえに、つながるために互いの行動を調整する必要がない。待ち合わせがその端的な例だろう。ケータイ世代にとって、決められた場所に何時に行かなければ相手に会えない、などという束縛はもはや存在しないのである。
では、この人間関係の「情報化」という契機は、これまでの人間関係の「都市化」という流れに沿いつつも、そこにどう組みこまれ、またどのような変化をもたらすのか。特に本稿の問題関心である家族関係に焦点をあてつつ、筆者がおこなった調査の結果をもとに、その点を次に検討していくことにしよう。
3.親子関係と移動体通信メディア利用の関連
以下に報告するのは、携帯電話(PHSを含む)およびそれに付属するメール機能の利用と、親子間の関係・コミュニケーションとの関連を把握するため、首都圏30km内在住の16~17歳の男女を対象におこなったアンケート調査の分析結果の一部である。住民基本台帳をもとに両親と同居していると見込まれる800人を層化2段無作為抽出法によってサンプリングし、2002年3月上旬に質問票を郵送。有効回答387票(有効回収率48.4%)を得た。調査方法の詳細および調査結果の概要については辻[2003]を参照されたい。なお、この年齢層の対人関係・コミュニケーションおよび携帯電話利用については性差がみられることが先行研究で確認されているので、その点に留意した分析・記述をおこなう。
この調査の一つの特色は、父母との関係と友人との関係について共通質問を設け、それらの比較をおこなえるようにした点にある。まずは、それぞれとの関係の特徴を簡単につかんでおこう。関係の満足度については「満足」「やや満足」「やや不満」「不満」の4択でたずねているが、前二者の合計値が友人で90%、母親も90%で、父親が78%とやや落ちるものの、おおむね父母ともに関係は良好に評価されていると言っていいだろう。また、この満足度に関しては男女間に有意差はない。
しかし、対人認知的感覚においては、友人・母親・父親の違いがはっきり浮かびあがる(図5)。相手と自分の「ものの考え方や感じ方が似ている」かどうかという“共通感”(あるいは同類感)は友人に対する場合で高く、母親・父親で低い。まさに類は友を呼ぶであり、親は友人のように選択できる関係ではないから、その意味では当然の結果とも言えよう。相手が自分の「ものの考え方や感じ方をよく把握している」かどうかという“被理解感”は、友人・母親で高く、父親で低い(特にこの傾向は女性に顕著で、父親に被理解感をもつ者は男性45%に対して女性34%、χ2検定でp<.05の有意差)。これは父親とのコミュニケーション不足が一因と思われる。実際、後述するように、父親との会話時間は友人・母親に比べてかなり短い。ただ、父親に対する共通感・被理解感の低さは、「どんな困ったことでも、きっと助けてくれる」という“信頼感”には響いておらず、友人・母親と大差ない。先にみたように父親との関係満足度があまり低くないのはそのためかもしれない。
図5 友人・母親・父親に対する対人感覚
これら共通感・被理解感・信頼感が、それぞれの相手との関係満足度にどう関連しているかを探るため、ロジスティック回帰分析をおこなったところ、友人関係と親子関係とのあいだに興味深い差がみられた(辻[2003])。友人関係の満足度に影響するのはもっぱら信頼感であるのに対して、母親・父親の場合には被理解感の係数値が最も高く、次いで共通感で、信頼感はあまり関連しない。つまり、若者は友人に対しては信頼を、親に対してはむしろ理解を第一に求めており、その充足が関係満足につながるということだろう。
では、本題のコミュニケーション状況と親子関係・友人関係との関連をみていこう。
友人と顔を合わせて話す時間(電話を除く)は、男性で平均3時間11分・女性4時間14分、母親とは同2時間9分・3時間21分、父親とは同1時間12分・1時間38分である。いずれの会話時間も男性より女性の方が有意に長く(t検定で友人・母親p<.001、父親p<.01)、特にその差は母親との会話時間で大きい。
携帯電話の利用率は、男性77%・女性90%(全体で83%)であった。利用者と非利用者で、友人・母親・父親との対面会話時間・関係満足度・対人感覚3項目を比較したところでは、次のような有意差がみられた。男女ともに非利用者の方が友人との会話時間が短く(男性では利用者3時間32分に対し2時間3分、女性では4時間25分に対し2時間33分、いずれもt検定でp<.01)、また、男性の非利用者に友人への信頼感が低い(男性利用者70%に対し50%、χ2検定でp<.05)。母親との関係では有意差はみられなかったが、父親に対しては男女ともに非利用者で信頼感が低い傾向にある(男性では利用者80%に対し64%、女性では71%に対し44%、いずれもχ2検定でp<.05)。その他の面でも、有意差にこそ至っていないものの、全般的に非利用者の親子関係・友人関係はネガティブな方向に傾いている。ここからは“コミュニケーションに消極的な者が→携帯電話を利用しないことで→さらに周囲とのコミュニケーションから遠ざけられる”という一種のデジタル‐デバイドの生じる可能性があるように思われる。
次に、携帯電話による友人・母親・父親との通話頻度をみてみよう。図6は、携帯電話利用者を100%として、それぞれの相手に週に数回以上かける/かかってくる者の割合を示したものである。ここで特徴的なのは、女性は男性より友人との通話頻度が低く*5、母親との通話頻度が高いことだ。
図6 携帯電話による通話頻度
携帯電話に付属のメール機能(以下、「携帯メール」と表記)の利用状況をみても、やはり女性の方が母親とメールを活発にやりとりしている。携帯メール利用者*6のうち、母親とメールをやりとりすることがある者は、男性34%に対して女性48%にのぼる(χ2検定でp<.01の有意差)。女性は対面・携帯通話・メール全般において母親と活発にコミュニケーションしていることが以上から読みとれよう。
一方、父親とメールをやりとりすることがある者は男性19%・女性21%と差はなく、また、母親とのやりとりに比べてかなり低率にとどまる。ちなみに、友人とのメールのやりとりについては、設問形式が異なるため直接の比較はできないが、週あたりの平均送信数は男性77通・女性88通、平均受信数は同82通・93通であり、やはり親とのメールよりも頻繁にやりとりされているようだ*7。
表1は、携帯電話および携帯メールの利用者を母数として、対面会話・携帯通話(かける頻度)・携帯メール(友人の場合は送信頻度)と、対人感覚3項目・関係満足度との関連を示したものである(数値はSpearmanの順位相関係数)。なお、母親・父親に関してはそれぞれとの同居者に分析を限定した。相関傾向は男女間で少なからず異なっているが、あえて大づかみに共通点を取りだすとすれば、まず、対面会話がどの相手との関係満足度にも相関していることが挙げられる。対面のコミュニケーションがやはり人間関係の基本をなすということだろう。また、母親との場合には、いずれのコミュニケーション‐モードも対人感覚3項目と有意に相関していないのに対して、父親との場合には比較的多くの相関がみられる。これは、父親とはコミュニケーションの質以前にその量がまず不足していることを示すものかもしれない。
表1 コミュニケーション頻度と対人感覚・関係満足度との関連
しかし、携帯電話の利用は、そうした父親とのコミュニケーション不足を大きく変えるものではなさそうだ。表2は、携帯電話を使うようになってからの、各相手とのコミュニケーションの増減を示したものだが(調査票では電話以外に対面会話も含めてたずねている)、父親とのコミュニケーションが増えた者は男女とも1割以下にとどまる。一方、母親とのコミュニケーションについては、特に女性で2割が増えたと答えている点が注目される(χ2検定で男女間にp<.05の有意差)。これは、もともと活発な傾向にあった女性の母親とのコミュニケーションを*8、携帯電話利用がさらに増幅することを意味しており*9、ひいては、父親とのコミュニケーションの格差(および男性の母親とのコミュニケーションに対する差)が拡がる可能性のあることを示唆している。
表2 携帯電話利用によるコミュニケーションの増減
ただし、母親とのコミュニケーションの量が関係の質(共通感・被理解感・信頼感)に関連していないことを考えあわせるなら、携帯電話利用によるコミュニケーションの増加が母子関係に直接大きな変化をもたらすとは考えにくい。また、繰り返しになるが、父親との場合にはそもそもあまりコミュニケーションが増えておらず、したがってここでも大きな変化は見込めない。親‐子の2者関係でみる限りでは、携帯電話(およびメール)がそこに直接およぼす影響は──コミュニケーションを減らすよりは増やす可能性の方が高いものの──小さいと考えるのが適当だろう。
むしろ携帯電話利用の影響が大きくあらわれるのは、当然かもしれないが、友人関係においてであり、表2をみても、友人とのコミュニケーションが増えた者は6割近く、母親・父親の場合より圧倒的に高い率を示している。また、表3にみられるように、対面では話しにくいことも携帯電話・メールなら伝えやすいと感じる割合(コミュニケーションの促進効果)も、相手が親のときより友人のときの方がかなり高い。
表3 携帯電話・メールの話し(書き)やすさ
携帯電話・メールの利用が友人関係を重点的に活発化し、一方で親子関係にはあまり変化をもたらさないとすれば、それによって友人関係と親子関係の相対的バランス──親‐子‐友という3者関係のバランス──が変わり、若者の人間関係における友人関係の比重がこれまで以上に高まる(親子関係の比重が下がる)と考えられよう。
このような親‐子‐友の3者関係という観点から、次に携帯電話の効用をみてみることにしよう(表4)。
表4 携帯電話の効用
まず、「家族といるときでも、友だちと電話で話すことが増えた」かという設問には、3割弱が肯定回答している。つまり、家族との共在状況より友人との電子的つながりを優先する者が4人に1人にのぼるということであり、こうした者には母親とのあいだで被理解感が低く、関係満足度も低い傾向がみられる*10。ここからは、親子の関係不全が友人とのつながりを強め、そのことがまた親子のあいだを遠ざける可能性がうかがえるだろう。
さて、従来の卓上電話は基本的に家族が利用単位だったが、携帯電話は個人と個人をダイレクトにつなぐため、「親が電話をとりつぐことがなくなって、友だちのことが親に知られなく」なることが考えられる。この設問については半数が肯定しており、実際、親が名前を知っている友人の割合は、「知られなくなった」者では平均4.6割で、そうでない者の平均6.4割にくらべて確かに低い(t検定でp<.001の有意差)。携帯電話は、親子関係と友人関係の接点を弱め、それらを別個独立の関係として切り離すようなはたらきをもつと言えるだろう*11。また、「知られなくなった」者は母親とのあいだで被理解感・関係満足度が低い傾向にあり*12、友人関係が知られなくなることが親子間の理解の低下につながる可能性を示唆している。
「いつでも連絡がとれるので、外出や外泊について親からうるさく言われなくなった」という設問に対しては、肯定回答が3割をこえている。一方、「携帯電話を通じて親に縛られているような気がする」という答えは1割に満たない。このことからすると、携帯電話はやはり親からの行動の束縛を軽減する方向にはたらくとみなしていいだろう。興味深いことに、この「親からうるさく言われなくなった」者には、友人関係の面で「場合に応じて、いろいろな友だちとつきあうことが多い」傾向が認められた*13。これは、特定の友人関係に固着することなく、状況に応じて複数の友人関係をフレキシブルに切り替え・使いわけるという、非束縛的な関係志向の一種であり、また、この関係志向が高いほど友人との携帯通話頻度も高いことが確認されている*14。こうした非束縛的な関係志向をもつ者にとっては、親子関係もまた携帯電話によって友人関係と同列に切り替え・使いわけられるものであるのかもしれない。
4.結びに代えて
高度経済成長期における日本社会の変化は、人間関係の「都市」化をもたらし、家族の個人化を進めた。ただし、それは必ずしも家族関係の切断・衰退を意味するものではなく、あくまで行動が家族という枠に縛られなくなったということであり、家族という関係(つながり)そのものへの志向はむしろ高まったとも言える。携帯電話・メールなどの移動体通信メディアは、そうした「つながりつつも縛られない」関係に適合的な性格をもっており、調査結果からも関係を非束縛化する方向にはたらくことが確認された。
携帯電話やメールはまた、親とのコミュニケーションよりもはるかに友人とのコミュニケーションを活発化するものであり、それと同時に、友人関係を親の知る範囲外へと遠ざけるような効果をもちうる。そのことは、親子関係が良好でない場合には、友人関係が親の知らない「アジール(逃げ場所)」としての吸引力をおびることにつながるだろう。プチ家出はまさに友人関係がそのように位置づけられたケースであり、そこでの携帯電話・メールは親子関係をとりあえず切らずにつなぎとめておく糸のような消極的な役割をはたすにすぎない。だが、今回の調査結果における親への信頼感や関係満足度の高さから考えるなら、こうしたケースはおそらく少数派だろうと思われる。むしろ多くの者にとって移動体通信メディアは、場所・時間をともにしない家族とのつながりをより積極的に維持するためのツールとして位置づけられていくのではないか。そうした積極性が確保できなければ、その家族関係は──ただちに捨てさられないまでも──携帯電話のメモリに痕跡をとどめるだけのつながりに容易に転じていくだろう。「自然な絆」であるかのように思いこまれてきた親子関係もまた、友人関係と同じように人為的に選択され取捨される関係へと、その性格を徐々に変えつつあるのかもしれない。
本研究の一部は、平成13年度関西大学重点領域研究助成金(研究課題「家族や地域社会における人間関係に見られる倫理観・価値観の変化」・研究代表者:高木修社会学部教授)によっておこなわれた。
註
- *1 もちろん世帯人数の減少には、上述したような産業構造の変化によって親世代と子ども(と孫)世代が切り離されたことだけでなく、戦後の急速な少子化の進行も直接に影響している。厚生労働省の人口動態統計によれば、1947年には4.54人であった合計特殊出生率はわずか10年後の57年には半分以下の2.04人に至っている。ただ、以下の行論に直接関係する論点ではないので、これに関する検討はここでは割愛する。
- *2 以上の事情について詳しくは広田[1999]を参照。
- *3 たとえば総務省統計局の「労働力調査」によれば、1980年から90年までの10年間にも女性の有配偶雇用者率は26.4%から33.9%に増えている。
- *4 実際の選択肢は、何ごとによらず厳しく接する「厳格」型、子どもを理解したうえで厳しく接する「理解+厳格」型、理解したうえで自由に任せる「理解+放任」型、何ごとによらず自由に任せる「放任」型の4つだが、本文中に示した数値は、前二者を“厳格”型/後二者を“放任”型としてまとめたものである。
- *5 友人との通話頻度が女性で低いことは、辻・三上[2001]、岩田[2001]などでも確認されている。ただし、平均通話時間は女性の方が長い(この点については今回の調査では設問していない)。
- *6 携帯メールの利用率は、携帯電話利用者比で98%(回答者全体比で81%)である。
- *7 友人とのメール送・受信数も女性の方が多い傾向にあるが、有意な差ではない。
- *8 母親とのコミュニケーション頻度が「もともと」女性で高いこと、つまり携帯電話利用によってもたらされたものでないことは、たとえば、携帯電話を使い始めてからも母親とのコミュニケーション頻度は“変わらない”と答えた者をとりだしたとしても、やはり女性の方が会話時間が長い(男性平均2時間13分に対して3時間21分、t検定でp<.001の有意差)ことから確認できる。
- *9 携帯電話利用が、もともとの家族関係(コミュニケーション)の傾向を増幅する可能性は、中村[2001]も本稿とは別の角度から指摘している。
- *10 性別を考慮してそれを制御変数とした偏相関値を計算したところ、「家族といるときでも、友だちと話すことが増えた」かどうか(肯定回答を1/否定回答を0として2値化)と、母親に関する被理解感とのあいだにはr'=-.16(p<.01)、関係満足度とのあいだにはr'=-.11(p<.05)の有意な負の相関がみられた。
- *11 場合によっては、このような切り離された別の世界(人間関係)に別のパーソナリティで生きることも可能になるかもしれない。もちろん今のところは思弁的可能性にすぎないが、この点に関する興味深い分析結果を参考までに紹介しておこう。「友だちのことが親に知られなくなった」者は、「私には自分らしさというものがある」とあまり感じられず(性別を制御変数とした偏相関値でr'=-.13[p<.05])、逆に「自分がどんな人間か、はっきりわからない」(r'=.15[p<.01])、「どこかに今の自分とは違う本当の自分があると思う」(r'=.18[p<.01])、「話す相手によって本当の自分と偽の自分を使い分けている」(r'=.13[p<.05])といったように、パーソナリティが拡散的な傾向がみられるのである。なお、これらの自己イメージに関する設問は、青少年研究会[2001]の調査を参考にした。
- *12 性別を制御変数とした偏相関値でみると、「友だちのことが親に知られなくなった」ことと母親についての被理解感とのあいだにはr'=-.13(p<.05)、関係満足度とのあいだにはr'=-.19[p<.01]の有意な負の相関が認められた。
- *13 性別を制御変数とした偏相関値でr'=.12(p<.05)。また、友人についての被理解感とのあいだにもr'=.16(p<.05)の有意な相関がみられる。ちなみに、母親・父親についての共通感・被理解感・信頼感・関係満足度とのあいだには、有意な相関はみられなかった。
- *14 この関連傾向については、今回の調査(辻[2003])だけでなく、辻[1999a]、辻・三上[2001]などで一貫して確認されている。
引用文献
- 広田照幸、『日本人のしつけは衰退したか』、講談社現代新書、1999年
- 岩田考、「携帯電話の利用と友人関係」、『モノグラフ・高校生 VOL.63 電子メディアの中の高校生』、ベネッセ、2001年
- 中村功、「携帯電話と変容するネットワーク」、川上善郎編『情報行動の社会心理学』、北大路書房、2001年
- NHK放送文化研究所、『現代日本人の意識構造 第五版』、日本放送出版協会、2000年
- 坂元慶行、「日本人の考えはどう変わったか」、『統計数理』48巻1号、2000年
- 青少年研究会、『今日の大学生のコミュニケーションと意識』、2001年
- 総務庁青少年対策本部、『青少年の意識の変化に関する基礎的研究』、大蔵省印刷局、1995年
- 統計数理研究所、『国民性の研究 第10次全国調査』(統計数理研究所研究リポート83)、1999年
- 辻大介、「若者語と対人関係」、『東京大学社会情報研究所紀要』57号、1999年
- 辻大介、「若者の友人・親子関係とコミュニケーションに関する調査研究 概要報告書」、『関西大学社会学部紀要』34巻3号、2003年〔印刷中〕
- 辻大介・三上俊治、「大学生における携帯メール利用と友人関係」(第18回情報通信学会大会 配付資料)、2001年