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ココロの話法
―― アイロニー・ユーモア・諷刺を中心に

辻 大介, 2001 『言語』30巻7号 (通巻258号), pp.54-60

1.はじめに
2.表現の婉曲性とユーモア
3.アイロニーと諷刺
4.ココロの話法
  / 文献

一 はじめに

 アイロニー、ユーモア、諷刺。これで三題噺をまとめて、「ココロの話法」というオチをつけてみよ。というのが、本誌編集部から私に与えられた課題である。皮肉を真に受け、ユーモアを解さず、諷刺精神に欠けるきまじめなこの私にこのお題とは、ありがたすぎて涙がこぼれる。編集部の格別のご配慮があったに違いない。今度お中元でも送っておこう。

 とまあ、しょっぱなからへたな事例で恐縮だが、これがアイロニー(のつもり)である。場合によっては、編集部に対する諷刺と言えなくもあるまい。また、直截的に「いじわるすぎて泣きたくなる、悪意があるに違いない」などと述べるよりは、いくぶんユーモラスに感じられるだろう(1)。このようにアイロニーとユーモアと諷刺には、どこかしら相通ずるものがある。それらはどこで相通じているのか。そして、三者の異同はどこにあるのか。この点を明らかにすることが本稿の目的である。

 手始めに、辞書を繙いてみることにしよう。これら三語はいずれも文学や美学では重厚な概念規定の加えられる専門用語だが、ここで扱うのは私たちが日常的に用いる表現法としてのそれらである。そうした日常語としてみると、たとえば『新明解国語辞典』(第五版・三省堂)では次のように説明されている。(日本語圏で「アイロニー」は日常語としては用いられないので「皮肉」で代えた。)

皮肉 
〔相手を非難・批評する気持で〕事実と反対の事を言ったりして、意地悪く、遠回しに相手の弱点などをつくこと。
ユーモア 
社会生活(人間関係)における不要な緊迫を和らげるのに役立つ、婉曲表現によるおかしみ。
諷刺 
社会制度に見られる構造的な欠陥や、高官の言動にうかがわれる人間性のいやしさなどを、露骨に非難せず、やんわりと大所高所から批評すること。

 これを手がかりに考えるなら、三者をつなぐ糸はどうやら表現の婉曲性という点にありそうだ。また、アイロニーと諷刺の共通性は、何かしらの対象を非難・批判する攻撃的な発話であるという点に求められる。それを婉曲に表現することによって攻撃性のはらむ緊張が和らげられ、ユーモアに通じるおかしみが醸しだされる。粗っぽいが、おおよそこのような見取り図が描けよう。この粗描図を携えながら、以下、もう少し詳しく考察していくことにしたい。

二 表現の婉曲性とユーモア

 アイロニーと諷刺はその表現の婉曲性によって、しばしば聞き手にユーモアを感じさせる。しかし言うまでもなく、すべてのユーモアがアイロニーあるいは諷刺であるわけではない。一つ実例を挙げておこう。私の参加したある学会でのエピソードである。言語文化をテーマとしたシンポジウムで、アメリカ人のパネリストが次のように話を切りだした。

日本人はお詫びで話を始め、アメリカ人は冗談で始めると言います。みなさん期待なさっているかもしれませんが、今日の私の話には冗談はありません。初めにお詫びしておきます。

 ここで会場からは笑いが起こり、緊張がほぐれて和やかな雰囲気が漂った。これなどはきわめて秀逸なユーモアと言ってよいと思うが、アイロニーでも諷刺でもあるまい。それは特定の対象を非難・批判するものではないからであり、攻撃の標的をもつか否かが単なるユーモアとアイロニー・諷刺を分かつ点である。

 もっとも、この例はユーモアというよりウィットと言うべきではないかと考える向きもあるかもしれない。ただ、その境界はきわめて不分明であり、そもそもユーモアの厳密な定義は不可能だとする研究者もいるくらいだ(Escarpit[1960])。この点を仔細に検討する余裕はないし、また本稿の目的でもない。とりあえずここでは、こうしたウィットとも呼びうる例も含めて幅広くユーモアをとらえておきたい。

 さて一方、ユーモアをアイロニー・諷刺とつなぐ点は、表現の婉曲性にある。しかし、これもまた言うまでもなく、すべての婉曲表現がユーモアを感じさせるわけではない。京都で来客に「ぶぶ漬け(茶漬け)でもどうどすか」と勧めるのは、そろそろ帰れということの婉曲表現だが、そこにユーモアは微塵も感じられまい(少なくとも私の経験では感じたことがない)。では、婉曲表現をさらにユーモアたらしめるものとは何なのか。

 この問いに確固たる答えを与えることは難しいが、ユーモアや笑いをめぐる先行研究のなかでしばしば指摘されるのは、人のもつ認知図式にある種のズレ・齟齬 (incongruity) がもたらされることでユーモラスな印象が生じ、笑いが促されるということである(森下[一九九六]、Attardo[1994])。先のシンポジウムの例でいえば、《日本人=お詫びで始める/アメリカ人=冗談で始める》という図式をまず提示しておいて、アメリカ人である話し手がお詫びで話を始めてみせ、図式との齟齬を意図的に作りだしている。さらにそれ自体が冗談となることで元の図式に再び収まり、発話と図式との二重のズレが入れ子型に聞き手に示されているわけだ。

 ユーモアや笑いの生まれるメカニズムについては他にも諸説があり、また、この所説に関しても、ユーモアにつながるズレとつながらないそれの違いは何かなど、検討すべき点は残されているが、それは別稿に委ねるとして、ここでは婉曲表現におけるある種の認知的なズレがユーモアに結びつくことを確認するにとどめよう。

 次なる問題は、アイロニーと諷刺がなぜユーモアに通じるか、ということである。ユーモアが認知図式のズレを伴うものであるとするならば、それと相通じるアイロニー・諷刺もまた、婉曲的ということ以上に、どこかにズレの契機をはらんだ表現法であるはずだ。そのズレの契機とは、どこにあるのだろうか。

三 アイロニーと諷刺

 この問題にとりかかる前に、アイロニーと諷刺の異同をおさえておこう。いずれも非難・批判の標的をもつものだが、諷刺の場合、その矛先はもっぱら第三者(話し手と聞き手以外)に向けられる。アイロニーはその限りではない。テストが0点で「オレって何て頭いいんだろ」と自嘲するときなどは話し手自身が標的となり、「大切なグラスを割ってくれてありがとう」と皮肉るときなどは聞き手が標的となる。これが第一点である。(アイロニーが聞き手に必ずしもユーモラスな印象を与えないことがあるのは、このように聞き手が攻撃対象となりうることが関係していよう。)

 また、第三者を標的としたアイロニーであっても、必ずしも諷刺にはなりえない。通りすがりの酔っぱらいをみて「ずいぶん酒に強い人だな」と言うのは、アイロニーではあっても諷刺ではない。諷刺の対象となる第三者は、社会制度や社会的上位者などに限られる。これが第二点である。

 そして第三に、狭義の修辞学的アイロニー──あることを伝えるのにそれに反するようなことばで表現する反語法──は、実際上ほとんど諷刺には用いられないということがある。試みに新聞の諷刺コラム欄を一ヶ月分ほど繰ってみたが、反語表現を用いたものは皆無に等しく、歴史的な落書[らくしょ]による諷刺を扱った本(紀田 [一九八〇] )を探しても同様であった。むしろ修辞法として目につくのは、次の例のようなシャレやかけことばである。

首相の座 名義は私ですが、ただ借りているだけです ~森喜朗」(『朝日新聞』朝刊二〇〇一年三月二四日:ゴルフ会員権疑惑の際の弁解のことばにかけたもの)
「上からは明治だなどといふけれど 治明[おさまるめい]と下からは読む」(明治維新直後の落書)

 これらも確かに、日常的な広い意味では(権力者に対する)「皮肉」に含まれようが、本稿では便宜的に、こうした字義通りの意味を聞き手・読み手に伝える皮肉は「あてこすり(sarcasm)」と呼ぶことにしたい。

 さて、世相や権力者をあてこする諷刺がユーモアにつながる契機、つまり、ある種の認知的ズレをはらむ契機は次のような点にある。諷刺は世相や権力者に対する怒りや憤りに端を発するものである。私たちがこうしたネガティブな感情に駆られているときには冷静さが失われがちだ。ことばの彩を練るような心のゆとりは少なくなり、感情があまりに強い場合には絶句したり叫びだしたり、言語化不能な状態にまで至る。この一般的に期待される図式に対し、諷刺にみられる婉曲さ・レトリックの駆使はその図式からのズレを生じさせる。別の角度からいえば、表現される内容=感情的/表現する形式=理性的という、内容と形式の食い違いがユーモラスな印象につながるわけだ。

 一方、字義通りの意味を伝えない(狭義の)アイロニーのはらむズレは、こうしたあてこすりによる諷刺とは少し毛色の異なるものである。少し議論が廻り道になるが、一般的・伝統的にアイロニーはことばの字義通りの意味の反対または否定を伝える修辞法とみなされることが多い。しかし、その考え方には無理がある。たとえば先に挙げた「大切なグラスを割ってくれてありがとう」の反対とは何か。「ありがたくない」では発語内行為が〈感謝〉から〈陳述〉に変わってしまい、正確な対称をなさなくなる。「ありがとう」の否定・反対にあたる言語表現や概念を考えることはきわめて難しく、不可能に近い。

 むしろアイロニーとは、発話と文脈・状況との齟齬を暗黙的に提示してみせ(内海 [一九九七])、発話の不適切性を意図的に示してみせることにその本態をもつ修辞法である、と考えた方がよい(辻 [一九九七])。「ありがとう」という発話が〈感謝〉という発語内行為として成立するためには、満たされるべき適切性条件が存する(Austin [1962])。アイロニーはその期待される適切性(話し手の利益になることがなされたはず)と発話状況(不利益になることがなされた)との食い違いを聞き手に提示してみせるのだ。アイロニーがユーモアに通じるのは、このようなズレによるものと考えられる。

四 ココロの話法

 アイロニーはまた、ある興味深い語用論的な性格をもっている。「皮肉って言うなら」と付言することができないという性格だ。「皮肉って言うなら、君は賢いね」という言い方は奇妙だし、アイロニーらしさを失ってしまう。それに対して、たとえば隠喩はこのような性格をもたない。「喩えて言うなら、君は僕の太陽だ」と付言したところで、その隠喩らしさは損なわれはしまい。

 グライスの示唆するところによれば、こうした明言による失効という性格は擬装的な言語行為のもつ特徴である(Grice [1989])。演劇のセリフなどがその端的な例にあたる。ハムレットを演じる=の擬装[ふり]をする役者が「セリフとして言うなら、生きるべきか死ぬべきか」などと言うのは奇妙であり、セリフとしての身分を失ってしまう。ハムレットの発話ではなく、役者本人の発話になってしまうからだ。役者本人はあくまで、劇中人物がこれこれと語り・ふるまう様子を示す(show)にとどめなければならず、その様子を言語化して語る(say)ことは許されない。ここにみられるのは、橋元[一九九五]の汎人称発話論に指摘されているような、存在主体[サブジェクト](役者本人)と行為人称[エージェント](劇中人物)とが乖離した言語行為の構造である。

 アイロニーも──劇のセリフと単純に同一視できるわけではないが(2)──これと同型の構造を有している(辻 [一九九七])。前節での考察をふまえていえば、ある発話を行いつつ(行為人称の次元)、その不適切性を文脈的・状況的に示してみせる(存在主体の次元)のがアイロニーであり、行為人称に対する存在主体の否定的な態度が示されているという点に乖離を認めることができよう。

 諷刺やユーモアについても同様に、明言による失効という性格と乖離の構造を指摘しうる。「何々を諷刺して言うなら」と付言すると、諷刺らしい辛辣さは薄められてしまうだろう。また、怒りや憤りを感じていること(存在主体)と、それを冷静に言い表すこと(行為人称)との間にはやはりある種の乖離がある。ユーモアの場合も、いちいち「ユーモア(冗談)として言うのですが」などと断りを入れることはないし、仮にそうしたとしても白けるだけだ。ユーモアのおかしさを説明するのが野暮とされるのは、そもそもそれが言語化しえないものであることを物語っている。ウィトゲンシュタイン曰く、「示されうるものは語られえない」のである。そしてまた、ユーモアの話し手は、認知的ズレを生じる発話を行いつつ(非理性的な行為人称)、そのズレをきちんと認識している(理性的な存在主体)ことを聞き手に示している。ズレを認識していない話し手は単なる愚か者であって、ユーモアのセンスがあるとは言えまい。ユーモアにおける存在主体と行為人称の乖離はこの点に求められるだろう(3)

 こうした乖離構造が示しているのは、人間という社会的動物に特異な心のありようである。人間は自らについて反省し、内省する唯一の動物である。そこでの「私」は思考する主体であるばかりでなく、思考の対象・客体でもある。人間の心には、このような「私」の分裂──〈I〉と〈me〉の乖離(Mead[1934])──が抱えこまれているのだ。アイロニー・ユーモア・諷刺の話し手は、しかじかと語る「私」を行為人称として客体化し、それに対する存在主体としての「私」の態度を示してみせる。これらの表現法は、そうした存在主体としての〈I〉の心的態度を示すと同時に、人間の心が根源的にはらんでいる〈I〉と〈me〉の乖離構造を暗に示している話法と言えるだろう。つまり、それらは二重の意味で「ココロの話法」なのである。

 オチのついたところで、そろそろ三題噺を終える頃合いとなった。「示しうる」のみであることを本態とする表現法をお題に戴いておきながら、いささか冗長に語りすぎてしまったかもしれない。最後に再び『論理哲学論考』からウィトゲンシュタインのことばを借りておこう。

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen.
語りえないことについては、沈黙しなくてはならない。
【注】
【文献】
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