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「とか」弁のコミュニケーション心理

辻 大介, 1999 『第3回 社会言語科学会研究大会 予稿集』, pp.19-24

1.はじめに~「無意味」な若者語の出現
2.「とか」「っていうか」の語用論的機能
3.「とか」「っていうか」と対人関係心理
4.対人関係のフリッピング志向と電話メディア
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1.はじめに――「無意味」な若者語の出現

 創刊50周年をむかえた『現代用語の基礎知識』(自由国民社刊)には、そのときどきの若者ことばを収めた「若者用語の解説」欄が設けられている。1990年代に入り、そこにある特徴をもつ若者語が登場した。「~てゆうか 特に意味なく表現を和らげる」(92年版)、「~とか 表現を和らげる無意味なつけ足し」(93年版)のように“意味がない”と解説される若者語である。例えば「明日映画行かない?」で済むはずのところを、冗長に「明日とか映画とか行かない?」と言う。それゆえに“無意味”とされるわけだ。

 これらの若者語は、ことば遣いの乱れとはまた違った側面で問題視されていった。次に引く新入社員研修員の談話にみられるように、対人関係におけるある種の心理態度のあらわれとして問題にされたのである(93年4月22日付読売新聞東京版朝刊より:下線は引用者)

若者の「とか」弁に、今年も悩まされた。「コピーとか必要ですか?」「会議とかやるんですか?」。「みたいな」「というか」「だったりして」なども多い。いずれも、ものごとを断定せずにそれとなくはぐらかす表現。「斜に構えて、相手に真正面から対することをよしとしない若者の心模様がかいま見える」…〔中略〕…。「ビジネスではごまかしの言葉は通用しない」といっても、なかなか直らない。複雑な人間関係から逃げる根本が変わらないと直らないと、思っている。 

 「とか」弁に代表されるこのようなぼかし表現・あいまい表現*1は流行語の域に止まらず、今なお広く用いられ続けており、99年版『現代用語』の若者語欄には「あいまい」という小見出しが設けられるまでになった。そこに含まれる13語の中には「とか」「てゆうか」も依然として見受けられ、『現代用語』に掲載される若者語の平均寿命が1~2年であることを考えると(米川[1994])、これらは若者語としては異例に長命であると言える。

 90年代に入ってこうした若者語が出現し定着した背景には、それらの語のもつ語用論的機能を考えるに、先の記事で指摘されていたようなある種の対人関係意識・コミュニケーション心理が潜んでいるように思われる。以下では、まず、それらの若者語のもつ対人関係的機能を分析し、次に、それらの語の使用にどのような対人関係心理が関連しているかについて、筆者の行った予備的調査の分析結果を報告する。

2.「とか」「っていうか」の語用論的機能

 「とか」「っていうか」などの若者語は、言語行為論の観点からみるならば、言語行為の設定する対人関係を緩衝するような機能をもっている。この点については辻 [1996] でも分析を加えたが、簡単に再論しておこう。

 ことばには行為を遂行する“力(force)”がある。これが言語行為論の中核をなす主張である。例えば、私が妻に「今日から禁煙するよ」と述べたとしよう。このことばによって私は禁煙の《約束》という行為を遂行している。つまり、この発話はそれを約束という行為として発効させる力をもっていると考えられるわけだ(Austin [1962=1978] )。Habermas [1976] によれば、この力は話し手と聞き手の間に一定の対人関係を設定する力と考えることもできる。先のように約束した私が次の日こっそり一服しているところを妻に見つかったとしよう。このとき、妻は私を正当に(richtig)非難することができる。それはいわば契約不履行に類するものだからだ。私は先の発話によって妻に対して一定の責任を負うことになったのであり、言い換えるなら、先の発話によって私(話し手)と妻(聞き手)の間には、債務-債権関係にも似たある種の拘束力を伴う対人関係が設定されたのである。

 「とか」「っていうか」、その他「って感じ」「みたいな」などの若者語は、こうした対人関係のもつ拘束力を緩衝するための語用論的方略とみなしうる。その方略はそれぞれの語によって微妙に異なるが、ここでは発話内容の不特定化と発話主体のメタ化の二つ*2をとりあげておこう。

 発話内容の不特定化は、その名の通り、そもそもあいまい表現全般に認められるものである。「とか」の一般的用法を例に考えてみよう。帰宅した私に妻が「ヤマギワとかいう先生から電話があったわよ」と告げたとする。後になって実はヤマギワ先生ではなく、ヤナギバ先生からの電話であったことがわかった。このとき、仮に妻が「ヤマギワという先生から…」と断言していたとしたら、私は彼女が誤っていたとしてその責任を問いうるだろう。が、この場合にはそこまでの責任は問いえまい。ヤナギバ先生が「ヤマギワとかいう先生」でないとまでは言い切れないからだ。このように不特定化をほどこすことによって、話し手は聞き手に対して負う責任を軽減することができ、発話(の設定した対人関係)のもつ拘束力を弱めることができる*3。若者語としての「とか」は、このような対人関係的機能に変則的なまでに寄りかかった用法とみなしうるだろう。

 「って感じ」「みたいな」も同様に不特定化の方略として考えられるが、これらについては発話主体のメタ化という方略も加えられている。これらの若者語は次のようにいったん発話が終結した形をとった後に付加される。

(i) このあいだの男、どうだった?
  1. バカじゃない、って感じ。
  2. バカじゃない、みたいな。

「バカな感じ」「バカみたいな」という表現に比べると、これらはいくぶん変則的な用法に感じられるだろう。特に「バカじゃないみたいな男」というのは文法的にも逸脱しているように思える。しかし、次の例のように、「バカじゃない」を使用(use)されたのではなく言及(mention)されたことばととらえるなら、こうした違和感も減るはずだ。

(ii) このあいだの男、明子はどう言ってた?
  1. 「バカじゃない」って感じのことを言ってた。
  2. 「バカじゃない」みたいなことを言ってた。

 (i)の「って感じ」「みたいな」を用いた発話は、これと同型の言語行為構造をもつものと考えることができる。(ii)は“I TELL you that X TELL that p”という汎人称発話構造(橋元[1995])をもつ。ここで、「バカじゃない」(= p)と述べたのは、一人称たる話し手(=I)とは別人物の三人称、明子(=X)である。(i)の場合に、「バカじゃない」と述べたのは話し手自身であるが、直後に「って感じ」「みたいな」を付加することで、そのことばの位相を使用から言及に転じる。言い換えれば、「バカじゃない」と述べた一人称を三人称化し*4、“I TELL you that p”を“I TELL you that I' TELL that p”と入れ子型に高次化することで、発話主体(=I)をメタ言語の位相に移し替えるわけだ。このことによって、発話主体は図1のように、“I TELL you that p”という言語行為の設定する対人関係の平面に距離を置くことができる。

図1

図1 発話主体のメタ化

「っていうか」も同じような語用論的機能をもつ。「カゼひいたの?」という問いかけに対し、「いいえ、疲れてるだけです」と答えることは相手の発話を真っ向から否定することになる。「っていうか、疲れてるだけです」と答えることによって、相手のことばより適切なことばを提示するメタ言語的評価者の立場に身を翻すのである。

3.「とか」「っていうか」と対人関係心理

 対人関係面でこのような語用論的機能を有する若者語は、冒頭に引いた新聞記事にみられるように、相手と正面から向き合って衝突することを避け、相手を傷つけない・相手に傷つけられないように距離を置いた人間関係を志向する心理のあらわれとして受けとめられていった。こうした心理傾向は若者論の分野でも盛んに指摘されており、他人と一線を引いて衝突を避ける「マサツ回避の世代」(千石[1994])、互いを傷つけないことに過敏な「やさしさの精神病理」(大平[1995])など、さまざまなネーミングが生まれている*5

 これらの若者論はしばしば“若者の対人関係の希薄化”という「俗説」を支持する学説としてとりあげられる。しかし、先のような若者語が、希薄な対人関係を志向する若者の心理から生みだされたとは考えにくい。第一に、いくつかの社会調査の統計データが示しているところをみると、最近2~30年の間に若者の対人関係が希薄化したような形跡は特にみられないことがある(橋元[1998]、辻[近刊])。対人関係希薄化論があくまで「俗説」にすぎないならば、それを志向する心理と先の若者語を結びつけて考えるのも誤りであるはずだ。第二に、「とか」弁などのもつ語用論的機能は、自分の心の奥底や本音を相手に伝わらないように表層的なコミュニケーションに止めおくようなはたらきではない、ということがある。「先生とかは嫌いなタイプだったりとかします」と言ったとしても、話し手の本音は「とか」を除いた場合と同じく十分に相手に伝わるだろう。これらの若者語を、表層的で希薄な対人関係に結びつけて考えるのは、基本的に筋違いなのである。

 「とか」「っていうか」などの若者語の語用論的機能は、あくまで対人関係の“重力場”に拘束されることから身を引き離すことにある。このことからすれば、これらの若者語は対人関係の“濃い薄い”よりむしろ“重い軽い”に関する心理――互いを束縛する重い関係より相手に寄りかからない軽い関係を志向する心理――と結びついているのではないか、という推測が成り立つ。こうした心理傾向が強まっている形跡は、社会調査のデータからもうかがえる。例えば、NHKの『日本人の意識調査』によると、職場でのつきあい方として「何かにつけ相談したり助け合える」ような重い“全面的”なつきあいを望む者は1973年59%→1993年40%と減少し、代わって「仕事が終わってからも話し合ったり遊んだりする」くらいの軽い“部分的”なつきあいを望む者が26%→39%と増加している。同様の傾向は親戚や隣近所とのつきあいについてもみられ、特に若い世代ほどその傾向が強い(橋本・高橋[1994])。

 この仮説――「とか」「っていうか」などの若者語は軽い対人関係への志向と関連しているのではないか――のもとに、筆者は1998年4月に東洋大学の学生253名を対象に予備的調査を行った(調査結果の詳細は辻[1999]に報告予定)。有効回答は250票(18~23歳)で、次の(1)~(8)のようなことばづかいについて、聞いたことがあるか・自分で使うか等をたずね、別途、友人関係やメディア利用に関する問いを設けた。奇数番号のα群がコミュニケーション上で設定される対人関係を緩衝するような語用論的機能をもつ若者語であり、偶数番号のβ群は特にそうした語用論的機能をもたない若者語である。

(1)
「カゼでもひいたの?」「っていうか、ちょっと疲れてるだけ」
(3)
「それって、かなりやばいよって感じだよね」
(5)
「渋谷とか行って、映画とか見ない?」
(7)
「お父さんはどんな人?」「ちょっと気むずかしいかな、みたいな
(2)
「しつこく説教するから、完全にキレちゃったよ」
(4)
「今日のバイトは疲れたよ」
(6)
「抜き打ちテストがあって、パニクっちゃったよ」
(8)
「弟がポケモンにはまってるんだよ」

 問題は、α群の若者語を使うことがどのような対人関係の心理傾向と関連しているかである(それがα群に特有の傾向かどうかはβ群と比較対照すればわかる)。そこで、これら8つのことばづかいを「よくする」4点~「まったくしない」1点としてα群・β群ごとに単純加算した使用度スケールを構成し、友人関係についての設問項目との相関分析を行った((1)~(8)のことばづかいをまったく聞いたことがないと回答した場合は欠損値として分析から除外した。聞いたことのないことばづかいをしないのは当然であり、その影響を排除するためである)。その結果が表1である(数値はSpearmanの順位相関係数)。

表1

表1 若者語の使用度と友人関係スタンスとの相関

α群の若者語の使用度と、友人関係の“濃さ”に関連する3設問との間には、「(i)友だちには悩みごとの相談ができる」に統計学的に意味のある正の相関がみられた。これは、α群の若者語をよく使う者ほど友人関係が希薄でないことを示している。また、友人数とは意味のある相関関係がみられなかった。つまり、友人関係の希薄もしくは不活発な者ほど「とか」「っていうか」などをよく使うわけではないということである。友人関係の“軽さ”については、拘束されることを厭うかどうかをたずねる「(iv)仲のいい友だちでも、ずっといっしょにいると離れていたくなる」と、「(v)どこに何をしに遊びに行くかによって、いっしょに行く友だちを選ぶ」ような部分的なつきあいを好むかどうかをたずねる質問項目を設けたが、後者に有意な正の相関がみられた。一方、この項目についてβ群には有意な相関がみられないことから、部分的な友人関係を場面に応じて切り替え・使い分けるような対人心理は、α群の若者語特有のものと考えうる。

4.対人関係のフリッピング志向と電話メディア

 以上のように、「とか」「っていうか」などの若者語の使用が、対人関係の“軽さ”に関する何かしらの心理傾向と結びついているのではないかという仮説はとりあえず支持された。分析結果によれば、それは場面や状況に応じて気軽に切り替えることのできる友人関係への志向であり、これを――テレビのチャンネルを気軽に切り替える“フリッピング”行動にならって――対人関係のフリッピング志向と仮に呼ぶことにしよう。

 興味深いことに、この対人関係のフリッピング志向は電話メディアに対する意識や利用行動とも関連している。フリッピング志向の高い者は、低い者に比べて、友人に電話をかける頻度が高く(Wilcoxonの順位和検定でp<0.01の有意差)、携帯電話・PHSの所有率も高い(フリッピング志向の高い者の所有率は70.4%、低い者は53.0%:χ2検定でp<0.01の有意差)。このような電話メディアへの親和性は、気分や状況に応じてコミュニケーションの回路のON/OFFを気軽に切り替えられるという電話のメディア特性に由来するものではないかと思われる。実際、フリッピング志向の高い者は「電話は話したくなければ切ってしまえるので気楽」と感じる度合いも高いのである(Wilcoxonの順位和検定でp<0.05の有意差)。彼ら彼女らにとって、電話――特に若者に普及著しい携帯電話――は、気軽に友人関係のON/OFFを切り替えられる「リモコン」装置であるのかもしれない(辻[1998])。

 今回の調査はあくまで予備的調査の段階にとどまるものであり、それゆえ以上のような知見も暫定的結論の域を出るものではない。しかし、そもそも若者語とその使用者の心理態度との関連を実証的に調べた研究は少数の例外(永瀬・岡・池田[1995]等)を除いて皆無に等しく、その語用論的機能に着目した先行例もない。若者語がその時代の社会意識をうつしだすものであるならば、近年におけるコミュニケーション・対人関係意識の微妙繊細な変質を探るための有効な研究材料であると考えられるにも関わらず、ほとんど手つかずの状態なのである。その意味でも今後の課題は大きい。若者語研究の裾野がこれまでの学問の枠組みを越えて拡がっていくことに期待したい。

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