現代美術の語用論 試論
―― デュシャンのアイロニーをめぐって
1.なぜ現代美術に「語用論」か
2.デュシャンの「アイロニー」~《泉》
3.言語行為としてのアイロニーの構造
4.言語行為としての《泉》の構造
5.美術史の転換点としての《泉》
6.《泉》以後の現代美術
註 / 文献
1.なぜ現代美術に「語用論」か
本稿では、現代美術(Contemporary Art)について語用論的分析を加えることを試みる。
現代美術という対象と語用論という方法の組みあわせに、奇異な印象を受ける向きもあるにちがいない。実際そうした試みは皆無に等しい。しかし、美術作品もまた人間相互の社会的ないとなみにおいて用いられる記号の一種にほかならず、語用論が記号論の三本柱の一つを担うものである(Morris[1938=1988:pp.12-3])ことを思いおこすなら、この組みあわせはとりたてて不自然なものでもないはずだ。むろんそれだけでなく、本稿の問題意識からすると、むしろ積極的に語用論的なアプローチをとるべき理由がある。
一般に現代美術は、前世紀以前からの伝統的な美術に比べると、不可解・難解なものと思われていよう。誰でも描けそうな「落書き」や「ゴミ」の寄せ集めにしか見えないもの、果てには缶詰にされた「大便」までもが、現代美術では立派な「作品」だとされる。いったいそんなものに美術作品としてどんな意味があるというのか? そんなものが美術作品だとはいったいどういう意図なのか?こうした素朴な疑念が現代美術の不可解さの源泉であるだろう。この素朴な疑問のなかに、語用論的アプローチが求められる理由が端的に現れている。そこで問われているのは、ある記号のもつ(美術作品としての)意味であり、そしてその意味とは、記号がどういった意図で使用されたかということに関わる意味──意味論の扱う“文の意味”ではなく語用論の扱うべき“発話の意味”──の次元に位置するものなのである。
はたして現代美術の作品は、美術史の流れにおいていかなる「意図*1のパターン」(Baxandall[1985])を織りなすものなのか? その一端を明らかにすることが本稿の目的である。
2.デュシャンの「アイロニー」
現代美術の動向を網羅する余裕はないので、以下では「ダダイズム(Dadaism)」と呼ばれる潮流の主幹者マルセル・デュシャン (Marcel Duchamp) の《泉》という作品を中心に論じることにしたい。これを特にとりあげるのは、この作品がしばしば現代美術の直接の起源とみなされるからであり、そして先の素朴な疑問が典型的にあてはまる代表例でもあるからだ。1917年、デュシャンは下図のような「R.MUTT 1917」とサインしただけの既製品の便器を《泉》と題して、自ら委員を務める展覧会に偽名で出品した。
Marcel Duchamp [Public domain], via Wikimedia Commons
この作品は他の委員の手によって直ちに展示から外されたが、その措置に対し、デュシャンはある雑誌に次のような抗議文を掲載する*2。
リチャード・マット事件。
六ドルの出品料をはらった作品はだれでも出品できるという。リチャード・マット氏は〈泉〉をひとつおくった。この品物はまちがいなく消えさり、こんりんざい陳列されなかった。マット氏の〈泉〉を拒否する根拠はなんであったか。
(1)ある連中はそれが不道徳で卑俗だと主張した。(2)またある連中は、それが剽窃である──つまり、たんなる衛生器具屋の器具にすぎぬ、と主張した。
さてマット氏の〈泉〉は不道徳ではない。浴槽が不道徳でないように、それは衛生器具屋のショウ・ウィンドーで毎日見ることのできる品物である。マット氏が〈泉〉を自分の手でつくったか否か、はたいして重要なことではない。彼がそれを選んだのである。彼は生活の日常的な品物をとりあげ、新しい題名と新しい観点の下でその有用な意味が消え去るように、それを並べたのである。つまり、あの物体に対するあたらしい思考をつくりだしたのだ。……
このように《泉》は当時の美術界で大きな物議を醸した。またデュシャンは、それによって既存の美術のありかたに異議を申し立てることを確信犯的に狙っていたのである*3。
「美術」は当時すでに一つの社会制度として確立していた。その確立期は19世紀とされるのが通説だが、これはそれ以前に美術作品と呼びうるものが存在しなかったことを意味するのではない。今の私たちの目に美術作品と映るものは、むろんそれまでにも存在する。だが、その当時を生きていた人々にとって、それは単に美しいもの・よきもの云々にすぎず、それを美術作品として見る(seeing as)*4ような慣習をもちあわせてはいなかったのである。「何かを美術作品として見るには、目に映らない何か──美術的なもののみかた、美術の歴史に関する知識、すなわち美術世界──が必要なのだ」(Danto[1964:p.580])。デュシャンはその美術世界に対して辛辣な嘲笑を浴びせかけたのである。
さて、《泉》はその辛辣な嘲笑の色あいをもって、美術(史)における「アイロニー」と呼ばれることがしばしばある。言語的なアイロニーは通例、ことばのもつ良い意味あいを悪い意味あいに転じるような修辞法とされており、そのことからすると、《泉》は俗悪な便器を高貴な美術作品に転じようとする逆の方向性をもつものだが、ある見方をとるならアイロニーと《泉》には確かにある種の構造的相同性が認められるのである。そのことを確認するために、まずはアイロニーの「構造」をみてみることにしよう。
3.言語行為としてのアイロニーの構造
筆者はかつて、橋元 [1995] の汎人称発話論を援用しつつ、言語的アイロニー (verbal irony) における言語行為の構造を分析したことがある。詳細は辻 [1997] を参照していただくこととして、その要旨をごくかいつまんで説明しておこう。
Searle [1969] 以来、発語内効力をF・命題内容をpとし、言語行為の基本構造をF(p)と措くことは言語行為論の前提として維持されてきた(それを統語論的深層構造とする仮説はすでに却下されているが)(橋元[1995:p.111])。つまり、
I PERFORM you that p
※PERFORM=発語内効力に該当する抽象的行為動詞
という形を、言語行為の基本構造として措定するのである。
しかし、そもそもAustin [1962] が論じていたように、ある言語行為(発語内行為)を遂行するための形式をそなえた発話であっても、その発話は無条件に当の行為として発効するわけではない。裁判官ならぬ傍聴人が「被告に死刑を宣告します」と言ったところで、それは“死刑の宣告”という行為の遂行としては不適切 (infelicitous) だろう。発語内行為の適切な遂行には「満たされるべき必要条件」(Austin [1962: pp.14-5] )が存するのである。
だとすれば、ある発語内行為が遂行される際には、その遂行は適切であるということも同時に発話者によって示されている──明示的にではなくとも暗黙の前提的仮定 (default assumption) として──と考えられよう。したがって、言語行為の基本構造としては、むしろ次のような形を措定する方が適当であることになる。
I SHOW you that it is felicitous that I PERFORM you that p
通常、この下線部は遂行される行為の背景をなしており、とりたてて前景化されることはないが、その例外がアイロニーである。「大切な花瓶を壊してくれて、どうもありがとう」というアイロニーを例にとろう。その発話を文字通り“感謝”の遂行とみなすことはあからさまに不合理(irrational)である。すなわち、その発話が“感謝”という行為の遂行としては不適切であることがあからさまに示されているのである。アイロニーとは、このように背景におかれている行為遂行の適切性に関わる部分を前景化する(図-地を反転させる)言語行為なのであり、その構造は次のように一般化しうる。
I SHOW you that it is infelicitous that X PERFORM you that p
すなわち、アイロニーとは、発話者がある発語内行為を遂行する役(=上の定式のX)をしてみせ、その遂行が不適切であることを示してみせる言語行為なのである*5。
4.言語行為としての《泉》の構造
同様にして、言語行為としての《泉》の構造を分析してみよう。
ここで、いわゆる視覚記号 (visual sign) を言語記号 (linguistic sign) と同列に扱おうとするやり方に抵抗感をおぼえる向きがあるかもしれない。確かに、視覚記号は言語記号とは異なり、明確な分節 (articulation) が難しく、それゆえ F(p) の命題内容部 p として何をもつかが不明瞭である。しかし、Searle 自身当初から「こんにちは」「さようなら」などの命題内容をもたない言語行為を認めており(Searle [1969: pp.64-5,67] )、その後の展開のなかで、言語的要素によらない意味伝達の場合も基本的に F(p) と同型の形式を考えうると主張してもいる*6。また、「さようなら」という言語記号を“挨拶”として用いる行為と、ある視覚記号を“美術”として用いる行為との間に、言語行為論の観点からみて決定的相違が認められるわけでもない。ある状況下でのある発話(「さようなら」「じゃまた」等々)が“挨拶”として適切か否かを判定する慣習的な条件が存するように、ある状況下でのある視覚記号の呈示が“美術”として適切か否かを判定する慣習的な条件も存する。それゆえ本稿では、ある記号を美術作品として用いるという行為に対して、先のような言語行為の構造図式を適用することに、特に不都合はないと考える。
では、《泉》を美術作品として呈示するという行為には、どのような構造が認められるだろうか? まずデュシャンによって、ある視覚記号(既製品の便器)を美術作品として呈示するという行為が行われる。これを第1階の行為としておこう。それに対し、美術界の権威から、その行為は不適切であるという判定が行われた。これを第2階の行為とする。この反応はデュシャンの予期・意図したとおりのものであり、彼の第1階の行為は、その適切性を判定する慣習的条件と不協和を生ぜしめることで、それを背景から前景へと引きだすことになった。こうした行為遂行の適切性条件の前景化が、まずアイロニーとの相同点の第一である。さらにデュシャンは、先に引用した文章にみられるとおり、その判定(第2階の行為)に対して、異議を──つまりそれが不適切であることを──申し立てる。この第3階の行為は、その直下にある第2階の行為の遂行が不適切であることを示すものであり、これがアイロニーとの相同点の第二である。これら第1~3階の行為を束ねると、《泉》においてあらわれる行為の構造は、次のように定式化できる。
I SHOW you that it is infelicitous that X1 regard it as infelicitous that X2 display the Sign as artwork
〔I=デュシャン X1=美術界の権威 X2=I=デュシャン Sign=既製品の便器〕
これはアイロニーよりさらに1次高階の入れ子型構造をなし、第1階の行為を二重否定することで肯定するという形をとっている。その点では《泉》とアイロニーの間には構造的な位相差があり、そうした高階の行為構造を織りなす複雑な「意図のパターン」こそが現代美術の難解さ・不可解さを生みだしたのだと言えるだろう。
5.美術史の転換点としての《泉》
このデュシャンの《泉》は、美術といういとなみに一つの構造転換をもたらした。その転換を美術史の流れのなかに、ごくおおまかにだが位置づけておこう。
18世紀半ばから19世紀初頭にかけては美術における新古典主義の時代であり、画題をギリシャ以来の古典に求める作品が数多く作られた。このギリシャ的な普遍美を求める流れに対し、より地域的・時代的に特殊な画題(例えばダンテやシェークスピアの物語)を求めたのが19世紀後半のロマン主義であり、日常的な生活や風景にまで画題を拡げたのが写実主義である。これらの流派は、画題の選択こそ相違するものの、何かを再現・表象する (represent) ものとしての作品を志向するという点では共通していた。この志向の転換点に位置するのが、マネやモネらに代表される印象主義である。印象主義は、当時の生理光学理論に則り、人間が光点の集合を一つの視覚像として構成するしかたを、絵画制作において実践しようとした。つまり、超越的な「美」をいかにして視覚的に再現・表象するかという問題構制を、視覚内在的な印象としての「美」をいかにして再構成するかという問題構制に組み替えた、いわば美術における現象学的転回をなしたのである。
印象主義の登場も、《泉》と同じように、当時の美術界・画壇で大きな物議を醸した。また印象主義の画家たちは、1863年に官展に落選した作品を集めて「落選展」を開くという皮肉っぽい試みも行っている。だがそれは、デュシャンの「アイロニー」からは未だ遠い。そこでなされていたのは、依然として
I SHOW you that it is also felicitous that I use such-and-such a Sign as an artwork
という、せいぜい2階の構造にとどまる行為であり、《泉》のように3階の構造をなす行為──ある記号を美術作品として用いることの適否を判定する第2階の背景的制度=美術制度を前景化・問題化する第3階をもつ行為──ではなかった。なぜなら、印象主義の用いた記号はやはりそもそも美術作品として制作されたものだったからである。
それに対し、デュシャンの《泉》は美術作品となる意図をもって制作されたのではない。それは別目的のために制作された単なる便器である。本来なら美術作品ではない記号をそれとして用いるということは、ある記号が半ば自明的に美術作品として充足している位相を突き崩し、その記号を美術作品として用いるという行為の位相を、ひいてはその適否を判定する慣習=美術制度の位相を問題化・前景化する。そうした構造的な位相転換をなしたのが、《泉》だったのである。
6.《泉》以後の現代美術
デュシャンの《泉》は美術制度そのものへの疑義を突きつける破壊的な試みであった。その破壊性を、美術制度の側は、従来の美術を狭義の「美術」として括弧内に押しこめ、その外に「現代美術」というカテゴリーを加えることで吸収する。そこで評価の対象となるのはもはや記号としての美術作品そのものではなく、その記号を美術作品として用いるという行為とその行為の織りなす「意図のパターン」である。
現代美術の諸作家はこぞって、狭義の美術においては不適切とされる記号を美術作品として用いる。マリリン・モンローの顔やキャンベルスープの缶などの大衆文化的な図柄をシルクスクリーン版画で大量生産するアンディ・ウォーホール。美術史上の有名な作品を精確に複製して自らの作品として呈示するエレーネ・スターテヴァントやマイク・ビドロ。市販されている風船ウサギのステンレス製の複製を工房に発注するだけで自らは制作に携わらないジェフ・クーンズ(下図)。彼ら彼女らの用いた記号そのものを美術作品として理解しようとした人々は混乱に陥る。それらの記号はできあいのものの流用ばかりで、何のオリジナリティも創造性もないように感じられるからだ。これらの作品は、狭義の美術への否定的言及(異議申し立て)を伴った行為として解釈されなければ、美術作品としてはおよそ理解不能だろう。
〔 図は省略:こちらの作品画像を参照 〕
(現代)美術の権威たちが評価の対象とするのは、そうした行為の背後にある意図──デュシャンの述べていた「新しい思考」──のパターンである。そしてそれを、すなわち作品にこめられた作家の意図・コンセプトを、作品の評価基準とするやり方を準備したのが、印象主義のなした転回である。作家本人や人間一般を超越した美を表象するものとしての作品から、作家の内在的な視覚印象としての美を再構成するものとしての作品へ。その転回は半ば必然的に、作家の内面の発露として作品を評価するやり方を準備した。そのもとで、超現実主義の作品は作家の内なる無意識・潜在意識を表現したものとして評価され、概念美術と呼ばれる抽象絵画などはまさに作家の内に生みだされた新奇な思想の抽象的表現として評価されていったのである。だがこれらの作品は、先に挙げたような《泉》以後の流れをくむ作品とは異なり、記号そのものを美術作品として解釈することが可能な準位にあり、狭義の美術への否定的言及を伴う行為としての解釈を要しない。この点で、《泉》とその流れをくむ現代美術とは位相を異にしており、むしろ正統的な狭義の美術の範疇に含まれるものだと言える。
このような評価基準のもとに、《泉》もまた、ある作家の生みだした「新しい思考」の一つであるとして美術作品たる理由を与えられ、その破壊性の及ぶ範囲は、括弧入れされた狭義の美術の枠内に押しとどめられることとなった。(広義の)美術は、それを否定する行為をも、こうした様々な「理由づけのディスコース」(西村 [1995: pp.46-8] )を駆使して、自らの内部にとりこむ制度へと翻身したのである。そのもとでは、美術制度を否定しようとする行為も形骸化した単なるそぶりに化さざるをえない。作品=行為においておりなされる「意図のパターン」の形式だけを抜きだしてその実質を無効にしてしまう磁場。それが現代の美術制度である。現代美術の多くの作品は、そのような磁場のなかに陳列された行為と意図の残骸にすぎないように、筆者には感じられてならない。
註
- 1. ここでいう「意図 (intention) 」は、Baxandall [1985: p.42] と同じく、作家よりむしろ作品に対して用いている。というのは、作家本人が実際にどんな意図をもっていたかではなく、あるコンテクスト(美術史)のなかでその作品がどんな意図を伴うものとして構成され(う)るかが、ここでの問題であるからだ。ここでは詳しく論じる余裕がないが、一般的に、意図がテレパシーのように伝えられるものでない以上、私たちは記号の使用に伴う意図を、記号の用いられた状況・コンテクストを考慮して構成せざるをえない。その際に、記号の使用者が実際にどのような意図をもっているかは問題ではなく、使用者の意図は、分析哲学でいう合理性の仮定 (assumption of rationality) のもとに(Føllesdal [1982] 等をみよ)、何かしらの合理的意図をもっているはずと参照されるいわばゼロ地点の役を果たすにすぎない。
- 2. 東野 [1977: pp.264-5] より再引用。なお、この文章は無記名であったため、デュシャン本人が書いたものかどうかははっきりしないが、通説ではそうだろうと推測されており、少なくともデュシャンが何らかの形で関与したものであることはほぼ間違いないようだ。
- 3. デュシャンの異議申し立てが確信犯であったことは1961年にニューヨークの現代美術館で語った話の内容からも十分にうかがえる(Duchamp [1973: pp.141-2] をみよ)。
- 4. この「~として見る」の用法は Wittgenstein [1953=1976: pp.383-457]に倣う。
- 5. この見解は旧来のアイロニー論のもついくつかの理論的難点を払拭するし(詳しくは辻 [1997] を参照)、最近のアイロニー論の進展(例えば内海 [1997] )とも大きな齟齬をきたさないように思う。
- 6. 例えば Searle [1991] (特にp.97)をみよ。ただし、本稿の行論中で Searle の論を引くには、再考・再定位すべき点がいくつかあるが、ここではそれだけの余裕がない。稿を改めたい。
文献
- Austin,J.L. 1962 How to Do Things with Words, Oxford University Press.
- Baxandall,M. 1985 Patterns of Intention: on the Historical Explanation of Pictures, Yale University Press.
- Danto,A. 1964 The Artworld, The Journal of Philosophy, vol.61-no.19, pp.571-584.
- Duchamp,M. 1973 The Writings of Marcel Duchamp (M.Sanouillet and E.Peterson eds.), Da Capo Press.
- Føllesdal,D. 1982 The Status of Rationality Assumptions in Interpretation and the Explanation of Action, Dialectica, vol.36, pp.301-316.
- 橋元良明 1995 「言語行為の構造」,井上俊ほか編『岩波講座現代社会学3 他者・関係・コミュニケーション』,岩波書店
- Morris,C.W. 1938 Foundations of the Theory of Signs, Foundations of the Unity of Science, vol.1, University of Chicago Press =1988 内田種臣・小林昭世訳『記号理論の基礎』,勁草書房
- 西村清和 1995 『現代アートの哲学』,産業図書
- Searle,J.R. 1969 Speech Acts, Cambridge University Press.
- Searle,J.R. 1991 Response: Meaning, Intentionality, and Speech Acts, (E.Lepore and R.Gulick eds.)John Searle and His Critics, Blackwell.
- 東野芳明 1977 『マルセル・デュシャン』,美術出版社
- 辻 大介 1997 「アイロニーのコミュニケーション論」,『東京大学社会情報研究所紀要』第55号,pp.91-127
- 内海 彰 1997 「アイロニーとは何か?――アイロニーの暗黙的提示理論」,『認知科学』vol.4- no.4,pp.99-112.
- Wittgenstein,L. 1953 Philosophische Untersuchungen, Blackwell =1976 藤本隆志訳『哲学探究』,大修館書店