HOME       Texts
論文PDF掲載サイト

言語行為としての広告
―― その逆説的性格

辻 大介, 1998 『マス・コミュニケーション研究』52号, pp.104-117

はじめに
一 広告という言語行為の逆説的性格
二 広告のレトリック再考
三 “広告”とはいかなる言語行為か
  / 文献 / Abstract

はじめに

 広告は、言うまでもなく、きわめて社会的なコミュニケーションである。それが研究対象となる分野も、社会学、政治学、経済学、歴史学、心理学、社会心理学、言語学、等々、きわめて多岐にわたり、その多様さは広告研究の概説書(1)をいくつか斜め読みするだけで十分にうかがい知れる。

 しかし、これら多種多様な先行研究において専ら扱われてきたのは、広告のメッセージ内容がどのようなものであるか(あったか)、それがどのように受け手に作用・影響するか(してきたか)という点である。特に、広告の内容──広告が何をどうコミュニケートしているか──については、マス・コミュニケーション研究の分野を中心に、ベレルソン流の内容分析にせよ、バルト流の記号論的分析にせよ、すでに数多くの分析が蓄積されてきたと言えるだろう。それに対して、広告というコミュニケーション行為そのもの──広告とはいかなるコミュニケーションであるのか──に照準した分析は、ほとんど見受けられないのが現状である(2)

 確かに広告というコミュニケーションは、今や私たちの日常にありふれたものとなっている。また、それが現代の消費社会に不可欠な要素であることは、もはや社会学の常識であるとすら言えよう。そこでは、広告が本来的に消費を促す力をもつものであることが、半ば自明の前提のように信じられ、ことさらに疑問がさしはさまれることもない。

 しかし、広告というコミュニケーションがありふれていることは、必ずしも、広告がとりたてて問題にするに足りないありふれたコミュニケーションの一種であることを意味するわけではない。特に《広告が本来的に消費を促す力をもつコミュニケーション行為であるのか》どうかは、論じるに足る十分な問題であるように思われる。小論では、つづく第一節において、むしろ広告という言語行為[コミュニケーション]には、本来的にその行為目的──消費の促進──を阻害するような逆説的性格が認められることを論じる。そして第二節以降では、そこから導かれるさらなる問題《それにも関わらず、なぜ広告は実際的にはその行為目的を達しうるのか》について考察する。

一 広告という言語行為の逆説的性格
「広告の最大の目的は利益を得ることである。…利益を生み出す助けとなるウソは、ウソも方便と考えられる。つまり、許されるウソである。」(Baker[1968=1969:p.6])

 三〇年前にこう述べられた広告の目的は、今も広く人々に共有される常識と言えるだろう。広告研究においてもまた、「広告の本来の目的は〝物を売る〟ことに」あり、「広告スポンサーの最大の関心事は、自社の製品の売り上げを伸ばすことにあることは、疑うべくもない」(飽戸[一九九二:二一九頁])と、前提されるのが通例となっている。

 小論が問題としたいのは、《広告は本来的性格としてそうした目的をもつがゆえに、当の目的達成が逆説的に阻害されてしまうコミュニケーション行為である》のではないか、ということである。本節では以下、広告という言語行為[コミュニケーション]を、別種の言語行為と比較することを通じて、このような逆説性を浮き彫りにしていくことにしたい。

 同じメッセージであっても、その解釈・受容のしかたは、それがどのような種類の言語行為[コミュニケーション]のもとに伝えられたものであるかということによって、大きく変わるものだ。例えば「ガンを一〇〇%治す薬が開発されました」というメッセージがあったとしよう。それが〝ニュース〟という事実を伝える種類の言語行為[コミュニケーション]のもとに発せられた場合と、〝ドラマ〟というフィクションを伝える種類の言語行為のもとに発せられた場合では、言うまでもなく、その解釈・受容のされかたは全く異なってくる。この点で、メッセージがどのような種類の言語行為のもとに発せられたかという情報は、そのメッセージの解釈・受容を規定するメタ‐メッセージ(解釈枠組み)であると言えるだろう。

 言語行為[コミュニケーション]様式の一種としての広告もまた、同様に、こうしたメタ‐メッセージ・解釈枠組みの一つと考えられる。したがって、例えば「この商品はすばらしいですよ」という広告があったとすると、その情報は次のような複層構造をなすものとみなすことができるだろう。

「この商品はすばらしいですよ」 … 基層的メッセージ
(↑このメッセージは広告です) … メタ‐メッセージ

 広告の場合、通常、このメタ‐メッセージの部分はあえて明言されることはないが、試みにこれを言語化し、〝助言〟という別種の言語行為と比較対照してみることにしよう。

(i)
これはあなたへの広告として言うのですが、
この商品はよいものですよ。
(ii) これはあなたへの助言として言うのですが、
この商品はよいものですよ。

 この(i)のような形をとる広告には、どこかしら奇妙なところが感じられる。そしてまた、「この商品はよい」という基層的メッセージの信頼性もかなり疑わしいものに思われるだろう。それは、当の言語行為が〝広告〟であると明言されることによって、その目的──商品を購買させるためになされた言語行為であること──が前景化され、ひいてはそのことが基層的メッセージの信頼性を損なってしまうためだ。

 一方、(ii)のような形をとる〝助言〟は、とりたてて不自然なものではないし、また基層的メッセージの信頼性が特に揺るがされているようにも思えまい。

 このコントラストは、基層的メッセージをその否定形「この商品はよくない」に換えてみると一層はっきりする。

(i')
これはあなたへの広告として言うのですが、
この商品はよくないものですよ。
(ii') これはあなたへの助言として言うのですが、
この商品はよくないものですよ。

 (ii)、(ii')ともに、こうした基層的メッセージをもつ〝助言〟は十分にありえよう。しかし〝広告〟については、(i)のような基層的メッセージをもつことが常態であって、(i')のようなメッセージ内容をもつ〝広告〟は原則的に考えられない。たとえ見かけ上はそうしたメッセージ内容の広告があったとしても、それは言外に「この商品はよいものである」ことを伝えようとする修辞[レトリック]として解釈されてしまうだろう。

 ある命題[メッセージ]が何かしらの情報を伝えうるのは、その命題の肯定と否定いずれにも成立の可能性が与えられている場合に限られる──それゆえ「xはxである」という同語反復や「xはxでない」という論理矛盾は何ごとをも語らない──ということとは、情報理論の初歩である。だとすれば、〝広告〟という解釈枠組みの内において、その否定(この商品はよくない)の成立可能性が予め失われた命題(この商品はよい)は、何ごとをも語りえない・何の情報をも伝ええないはずだ。

 それにも関わらず、〝広告〟はひとびとを説得し、消費に駆り立てている(少なくともそのように社会的に現象している)。これは問題とするに十分なきわめて奇妙な事態ではないだろうか。

 ある目的のために行われるコミュニケーションであるのに、それがゆえに当の目的の達成が阻害されてしまうという逆説性。広告という言語行為の特異性はそこにある。

二 広告のレトリック再考

 〝広告〟は本来的にこのような逆説的性格をもつにも関わらず、とにもかくにも実際的には自らの目的を達成している、少なくとも達成しているかのように現象している。それはなぜなのか、どのようににしてなのか。本節では、広告の駆使するレトリックを考察してみることを通して、このさらなる問題に取り組んでいくことにしたい。ここで広告のレトリックにことさらに注目するのは、実際の広告がさまざまな洗練されたレトリックの宝庫であるのに対し、前節で広告本来の逆説性を論じる際に挙げた例が最も素朴[シンプル]な種類のものであるからであり、それゆえに逆説性をまぬがれえないのではないかと考えられようからである。

 まず初めにとりあげたいのは、事実の挙示というレトリックとは言いがたいようなレトリックである。「この商品はよいものです」というのがいかに広告が本来伝えたい命題[メッセージ]であったとしても、それをそのまま述べたてて受け手に鵜呑みにさせようとする素朴な広告は実際には稀だろう。そのため、「麦一〇〇%だから泡までおいしい」(ビールの広告)などのように、その商品が優れている(おいしい・便利・等々)ことの理由づけとなる事実を挙示するという方略がしばしばとられる。このような事実命題は、「この商品は優れている」といった価値命題と違い、広告という発語内行為に組み込まれても、その内実を失わない。広告は「許されるウソ」であるとは言っても、実際に決定的な虚偽や欺瞞を述べたてることは法的に厳しく規制されており(3)、社会的に事実と認められる範囲内の事実命題しか組み込むことができないので、

(a)
私は「この商品は麦一〇〇%である」と広告できる
(a') 私は「この商品は麦一〇〇%である」と広告できない
( ⊃ この商品は麦一〇〇%でない)

という形で、事実命題については肯定/否定の成立可能性が与えられるからだ。

 だが、この方略は〝広告〟の逆説性を解消する決定打とはならない。ガンを一〇〇%治す商品が開発され、そのことが広告されたとしたら、その広告は確かにその商品が優れていることの(つまりその商品を購買・消費することの)強力な理由づけを受け手に与えるものだろう。しかし、そのような強力な理由づけを与えうるだけの事実を備えた商品が実際にどれほどあるだろうか。広告で「麦一〇〇%だから」と謳われているからといって、それを直ちに「そのビールがおいしい」ことの強力な証拠とみなすほど現代の消費社会に生きる人々は単純ではあるまい。広告の述べる事実命題が信頼するに足るものであることは、必ずしもそれを理由づけとして述べられる帰結が信頼するに足るものであることを意味しない。広告の述べたてる事実命題は、明示的にであれ暗示的にであれ、「この商品は優れている」という価値命題を帰結させようとするためのものであり、そうした〝広告〟の本来目的がひとびとに広く認識されている限り、いかに事実を挙示しようとも、その帰結はやはり逆説性の磁場を脱しえない。そして、言うまでもないことだが、ひとびとに商品購買(消費)の理由づけを与えるのは、挙示された「事実」よりむしろそこから帰結される「価値」の方なのである。

 念のため、いま一度、次のような素朴な再反駁に答えておきたい。「この薬はガンを一〇〇%治します」という広告があったとすれば、この広告はまず間違いなくその薬の購買を促すことができるだろう。それはこの広告がガンを一〇〇%治すという商品価値を伝えたからではないのか。答えは否である。いかにそれがその商品の価値を伝えているもののように思えても、それが伝えているのはあくまで広告商品についての事実(命題)であり、「商品xがガンを一〇〇%治すものであるならば、商品xは購買に価する」という価値づけを与える命題は予め受け手の側に内在していたはずであるからだ。つまり、その広告商品の価値づけは〝広告〟の外から与えられるのであり、〝広告〟の逆説性の磁場の外からもたらされるのである。

 では次に、いわゆるイメージ広告(または芸術[アート]広告)と呼ばれるもののレトリックをとりあげよう。事実挙示型のレトリックが商品(に関する事実)という指示対象に照準されたタイプのものだとすれば、これはヤコブソンのいうところのメッセージそのものが照準された、言語の詩的機能(4)を前面にうちだしたタイプのものと言えるだろうか。このタイプの広告は、高度成長期が終わり、広告の「商品[モノ]離れ」が言挙げされるようになった八〇年代に盛んな注目を浴びた。

「技術水準の向上や情報化の進展によって商品の基本性能に大きな差が認められなくなった段階では、商品の差別化が困難となるため、広告は商品から自立し、広告それ自体の差異化を通して商品の差別化を図るようになった。…こうした差異化の進行は、一方では広告表現の成熟をも促した。一例をあげるなら、アルチュセール・ランボーを主題にしたテレビCMは美術評論家の東野芳明により1983年度の美術界の収穫ベスト5の第1位にランクされている」(稲増・山田[一九九四:二六九頁])

 もっともこうした「芸術」的な広告は、80年代に初めて現れたものではなく、日本では今世紀初頭から広告の「芸術化」が進んでいたことが認められるし(北田[一九九七:九四-一〇八頁])、また、高名な詩人や小説家、画家、音楽家が広告制作に携わっていた例は、洋の東西を問わず古くから枚挙に暇がない(5)
 こうした広告商品より広告表現そのものに照準したタイプの広告は、言語・映像の両面にわたって、まさに狭義のレトリック(比喩や擬人法、シャレ等々)の宝庫である。そのレトリック表現についてはこれまでも数多くの詳細な分析がなされてきた(6)。しかし、そうしたレトリック表現の巧拙・優劣を競うことが、どうして〝広告〟本来の目的──商品購買・消費の促進──の達成につながりうるのかについては、先の引用中にもみられる通り、もっぱら「広告それ自体の差異化を通じての商品の差異化」と言い放たれるばかりであり、せいぜいがそこに「広告表現により商品の付加価値が高められる」などといった広告代理店の常套句が補われる程度だ。広告表現の優劣と広告商品の優劣はそもそもは無関係なものであるし、仮に何らかの形で広告表現から広告商品への付加価値の贈与がなされるとしても、〝広告〟によるそうした付加価値の提示は、やはり前述したような逆説性の磁場を脱しきれないのである。

 広告表現がいかに優れていようともそれは所詮は商品を買わせようとせんがためのものであること。広告表現の優劣が広告商品の優劣とは無関係であること。現代の消費社会を生きる広告の受け手はそのことに十分自覚的だ。そのことが自覚化されていった過程は、難波[一九九四]において丁寧に跡づけられているので、詳述は省くが、例えば「広告って、それを見ていいなと思っても、すぐ、その商品を買うというものではないですね」といった声が一般の生活者からあがるほどに(同上論文:九一頁)、広告表現と商品の良し悪しは切り離されて評価されるようになっているのである。

 さて、このように考えてくると、〝広告〟は合理的な意識に訴えかけてその目的を達しようとするのではなく、むしろ催眠術か何かのように潜在意識に訴えかけることで非合理的に効果をあげているのではないか、とさえ思えてくるだろう。確かに、広告の古くからの常套手段である商品名の連呼などはまさしく催眠術を思わせるものだし、潜在意識への訴えかけ(もしくはそれに類した過程)で広告を説明しようとする論者は後を絶たない。彼ら彼女らが用いるのは、もっぱら精神分析の概念装置(Williamson[1978=1985])か、あるいはその怪しげな俗流版(Key[1976=1989])だが、刺激の単純な反復呈示や意識下[サブリミナル]での呈示がその刺激への選好を増すことは信頼に足る心理学実験(Kunst-Wilson and Zajonc[1980]など)でも確認されている(7)。例えば、Zajonc and Marcus [1982] の、人の顔写真や外国語の文字、メロディなどを刺激とした実験では、

「接触回数の増加が好意を増大することが示された。特に、その対象に以前に接触したことがあると再認できないときにも、好意度が増大するという結果が得られている。そして、被験者は接触回数の多い刺激を現実には好んでいながら、なぜ好むのかという質問に対しては、『音が好きだから』『形が魅力的だから』といった合理的な説明をし、接触回数の多さを理由にあげたものはなかった」(田中・丸岡[一九九一:一六四頁])

 このような実験結果に対しては、特に精神分析理論をもちださずとも、Bornstein[1992]に倣って、次のような説明を与えることができる。刺激への反復接触は、それが意識的なものであれ無意識的なものであれ、その刺激の知覚を容易にするだろう(聞き慣れた声が雑踏の喧噪の中でも浮き立って聞こえるように)。そのような状態で被験者が、すでに接触したことのある刺激とない刺激のどちらを好むかと選択を迫られたとしたら、浮き立って見える・聞こえる刺激を選択してしまうことは十分に考えられる。そして、〝浮き立って見える・聞こえるのは以前の接触経験によるものである〟と認識できなければ(選好の理由として接触回数の多さをあげた被験者がいなかったことはその認識に失敗したことを示している)、選好の理由を〝もともと自分はこちらが好きだったのだ〟と誤帰属してしまうのはむしろ自然な反応だろう。

 〝広告〟はこのような誤帰属を受け手に生じさせることによって機能しているのではないか。こうした考え方は十分に成り立つだろうし(例えば下條[一九九六:一八七-二二六頁])、〝広告〟がメッセージの伝達(コミュニケーション)ではなく、このように誤帰属の誘発(認知的操作)によって機能するものだとすれば、前述したような逆説性はそもそも問題にならない。

 しかし、だとすれば、広告は商品名をひたすら連呼し、商品映像を繰り返し呈示して、あとは露出量を高めるだけでよいはずだ。それにしては、実際の広告には、あまりに多くの命題[メッセージ]表現[レトリック]があふれすぎている。それは、〝広告〟が実は「コミュニケーション的行為(kommunikatives Handeln)」ではなく単に受け手を認知的に操作しようとするもの(「戦略的行為 strategisches Handeln」(8))であることを覆い隠すためのアリバイにすぎないのだろうか。

 確かにそうした面があることは否定できないが、広告において何が(命題)・どのように(表現)語られるかによってその効果(消費の促進という目的達成の度合い)に差がうまれることもまた事実として認めざるをえまい。〝広告〟が誤帰属の誘発といった単なる認知的操作によってその効果をあげるものならば、何がどのように語られようとも、そのことによって広告効果に差はうまれないはずだろう。この事実をみる限り、やはり〝広告〟は何かしらのことを何かしらの形で受け手にコミュニケートすることによってその目的を達成していると考えざるをえないのである。

三 〝広告〟とはいかなる言語行為[コミュニケーション]

 それでは、〝広告〟というコミュニケーション(言語行為)は、いかにしてその目的を全うしているのだろうか。

 まずは前節までの議論を簡単にふりかえり、そのポイントをおさえておこう。広告は、それが〝広告〟という言語行為であることを前景化してしまうと、その目的──広告商品の購買・消費の促進──を前景化することになり、第一節で述べたような逆説性の磁場を強力に作用させてしまうことになるのであった。それゆえに、第二節で述べたように、「事実の告知」や「芸術作品」などの体裁を装うなどして(9)、それが〝広告〟であることを背景化し、そのことによってまがりなりにも何ごとかをコミュニケートしうる言語行為としての身分を擬装する (pretend) のであった。

 〝広告〟の本質は、まさにこうした擬装的な言語行為という点に求められるのではないか。これが本稿の最終的な結論・仮説である。この作業仮説を、『言語行為論 (Speech Act Theory) 』の理論枠組みを援用しながら、残された紙幅の許す限りにおいて改めて追究していくことにしたい。

 まずは言語行為論の基本構図を簡単に紹介しておこう。

 イギリスの言語哲学者オースティンは、言語行為について三つの行為側面を区別した(Austin[1962=1978])。「その本を取ってください」という発話がなされた場合を例にとろう。この発話は、かくかくしかじかと述べる行為──発語行為(locutionary act)──であるばかりではない。そう述べることにおいて(in saying)、〝依頼〟という行為がなされてもいる。これを発語内行為(illocutionary act)という。そして、そう述べることによって(by saying)、結果的に〝相手に本を取らせる〟〝相手を面倒がらせる〟などの行為をなすことにもなるだろう。これを発語媒介行為(perlocutionary act)という。

 発語内行為については、それがどのような行為かを「私は~と依頼します (I request that ... ) 」といった慣習的[コンヴェンショナル]な定型の発話形式によって指定しうるという特徴がある(10)。しかし、こうした定型発話形式によって行為の指定を行ったとしても、その発話が直ちに当該の発語内行為として発効するわけではない。死刑を〝宣告〟するという発語内行為を例に考えてみよう。しかるべき資格を備えていない者(例えば裁判官ではなく傍聴者)が「被告に死刑を宣告する」と述べたところでそれは死刑宣告にはなるまい。また、劇中の裁判官役がそう述べたとしても、実際に死刑の宣告が行われたことにはなるまい。これらは死刑の〝宣告〟が為されたというには「不適切(infelicitous)」だ。発語内行為の適切な遂行には「満たされるべき必要条件」(ibid.:p.26-7)が存する。

 オースティンの後継者サールは、この「発語内行為…が首尾よく、かつ、欠陥をもつことなく遂行されるための…必要十分条件」の定式化を試み、それを四種類に大別し(Searle[1969=1986:p.97-128])。その一つに誠実性条件(sincerity condition)というものがある。これは、当該の発語内行為を遂行しようとする話し手の心理に加えられる制約であり、例えば〝依頼〟の場合であれば、聞き手が依頼されたことを行うことを話し手が本心から(sincerely)望んでいるかどうかということがそれにあたる。

 さて、サールはこの誠実性条件との関連でいわゆるムーアの逆説にふれている。それは、

(1) 今、雨が降っている。でも、私はそのことを信じない。

などのように、「p という命題と『私はp を信じない』という命題が不整合でないにもかかわらず、私は、p を主張しながらかつp を信じないということができない」(ibid.:p.128)という逆説のことだ。サールによればこの逆説が生じるのは「誠実性条件において特定される心理状態が存在するときにはつねに、その行為の遂行がその心理状態の表現と見なされる」(ibid.:p.116)からだという。

 これに対し、橋元[一九九五:一〇九頁]は、「表面上(1)と同型でありながら、明瞭に逆説性を構成しているとはいいがたい」例として次の(2)(3)のような発話をあげている。

(2) 地球は丸い。でも、私はそのことを信じない。
(3) 麻原彰晃が地下鉄サリン事件を指示した。
でも、私はそのことを信じない。

 (2)は「科学的真理」に関する発話、(3)は「報道的真実」に関する発話である。そして、ここには次のような発話(4)を加えることができるだろう。

(4) この商品はすばらしいですよ。
(独り言として)まあ、私自身は特にそう思っているわけではないんですが。

 初めの発話が相手に対する〝助言〟だとすれば、かなり奇妙に感じられるが、〝広告〟としてなされたものであるとすれば、それに続く独り言も特に不自然なものには聞こえまい。

 では、これらの発話は(1)とは誠実性条件を異にする別種の言語行為なのだろうか。橋元はむしろ、(2)(3)のような言語行為が(1)とは「基底の構造を異にする」可能性を考える。少し長くなるが引用しておこう(同上書:一一一-一一二頁)。

「構造としてあらゆる言語行為…の行為主体として話し手 I 、行為対象として聞き手 you を措定することは…言語行為論の前提として維持されている。たとえば、(2)の場合をとっても、その基底には、I TELL you that p …という構造を考えるのである。しかし、単純にそう考えた場合、(1)のような例との差異が表現できない…。こうしたことを説明するためには、言語行為主体の二重性という事態を考えなければならない。……。もう一度、ここで(1)(2)(3)…の発話の第一文を観察してみよう。
 …(1)の場合、話し手の体験した外的世界を言語化している。…一方、(2)は話し手の体験した外的世界や心的世界の記述ではない。話し手が言語化しているのは、話し手には体験し得ない世界であり、既に存在している他の言説的世界を再言語化したに過ぎない。このことは、報道的言説を再言語化した(3)も同様である。…これらのことから言えるのは、(1)の場合においては、言語行為の基底構造を I TELL you that p と考えてよいが、(2)(3)の場合、発話主体として、もう一つ別の一般人称X、つまり既に流布している言説の発話主体を挿入しなければならないということであろう。つまり、(2)(3)のような発話は、I TELL you X TELL that p という構造をもつ(斜体のTELL は限りなく「言及」的使用に近い陳述を示す)。このような構造をとる発話をここでは「汎人称発話」と呼ぶことにしよう。」
(※引用の便宜上、若干の修正を施してある)

 〝広告〟もまた、このような汎人称発話構造をとる言語行為の一種なのではないだろうか。筆者は別稿で、この橋元の汎人称発話構造という考え方を言語行為一般の構造として展開したことがある(辻[一九九七])。そちらを用いて説明していこう。そこでは、通常の発語内行為の汎人称発話構造を次のように再定式化しておいた。

I SHOW you that it is felicitous that X PERFORM that p

 ここで SHOW は積極的に言語化される──「語られる」──のではなく、いわば単に「示される」のみであることを表している。また、PERFORM は遂行される発語内行為を表す。“it is felicitous”の部分に示されるのは、当該の発語内行為の遂行を適切なものとする諸条件であり、ここには(サールのいう誠実性条件にあたる)発話主体 I と発話人称 X の一致〈I=X〉も含まれる。したがって、通常の発語内行為は、

I SHOW you that <I=X> & X PERFORM that p

の縮約形として、

I PEFROM that p

という形をとるものとみなしうるわけだ。

 一方、ある種の言語行為には〈 I ≠ X 〉を前提として成立するものがある。演劇中の言語行為などがそれであり、そこでのセリフは役者自身(発話主体 I )の発したものではなく、あくまで彼・彼女の演ずる人物(発話人称 X )の発したものだ。広告もまた、商品・サービスの生産主体としての企業Iと広告の発信者としての企業 X が必ずしも一致をみない言語行為である。生産主体 I としては〝この商品はよくない〟と思っていたとしても、広告発信者 X としては「この商品はよいものです」と述べることになるだろう。そして、受け手もまた、そうした I と X の乖離・不一致を、「広告」という言語行為の前提として認知している。

 構造的な面にとどまらず現象面においても、広告と演劇的な言語行為は、同型の言語的ふるまいをみせる。

 演劇的な言語行為の本質は、役者(=発話主体 I )が「生きるべきか死ぬべきか」などと語ることにあるのではなく、彼の演じるハムレット(=発話人称 X )が「生きるべきか死ぬべきか」と語ることを示すことにある。それゆえ、発話主体 I が示すべきところを、「これはハムレットのセリフとして言うのですが、生きるべきか死ぬべきか」などというように発話人称 X に語らせてしまうのは奇妙であり、ハムレットのセリフとしての効果が損なわれてしまう。広告についても同様であることは、一節の(i)の例において既にみた通りだ。

 広告が、予めセリフの定まらぬ即興[アドリブ]劇あるいはごっこ遊びのような擬装的な(何かの擬装[ふり]をする)言語行為だとすれば、前節末尾に述べた『広告はやはり何ごとかを何かしらの形でコミュニケートすることによって効果をあげている(目的を達成している)』という事実も、次のように説明しうる。例えば「恋人ごっこ」において、恋人のセリフにふさわしい内容を上手な言い回しで述べることが、相手に「恋人ごっこ」をおもしろがせ、それを継続させる動機づけを与えるだろう。同様にして、上手[うま]い広告表現は、受け手に消費のゲームを続ける動機づけを与えるのである、と。

 このアナロジーをさらにもう一歩前に進めよう。

 ごっこ遊びの、例えば「君を愛している」などのセリフは、それがあくまでごっこ遊びにおける発話であること──発話主体Iと発話人称Xが乖離していること──が前提とされ、その認知のもとに解釈・受容される。だが、それを認知するにとどめず、反応(行動)の面において、それを「君は恋人ごっこをしてるからこそ『愛している』なんて言うのでしょ」などと積極的に問うてしまうならば、ごっこ遊びは瓦解し、相手のセリフもその効力を失ってしまうだろう。

 同様に、広告が消費のゲームにおけるセリフであるならば、それが広告であることは認知されるにとどめられ、積極的に問われてはならない・行動に反映されてはならないはずなのだ。その認知が行動面においては不問に付されること。それが、消費のゲームの存続要件なのである。

 ごっこ遊びを続けることに大きな理由づけなど要しないように、消費のゲームが継続されなくてはならない決定的な根拠もおそらくはあるまい。その確たる根拠の無さが露呈することを防ぎ、それに代えてとりあえずの消費の理由づけを与えるもの。それが〝広告〟という言語行為[コミュニケーション]なのではないか。それは「広告でこの商品はかくかくしかじかと言っていたから」「この商品の広告がおもしろかったから」等々のように、個々の消費のとりあえずの理由[アリバイ]・言い訳を与えてくれる。商品価値などというものは、おそらくはそこから遡って事後的に(〝広告〟とその逆説性の磁場の外で)帰属されるにすぎないのではないだろうか。

 こうした個々の消費の理由が集合して、消費一般の理由[アリバイ]に等値されるならば、消費というゲームの無根拠さはその背後に退けられ、不問に付されることになるだろう。そのもとで、〝広告を見て聞いて-商品を消費する〟というサイクルが円滑に繰り返されるならば、〝広告〟はその目的を達しうる力をもつものとして実際に現象する。こうして、〝広告〟は自らの身の証し[アリバイ]をたてるのである。

 従来の広告研究は、広告がいかにしてその目的──消費の促進──を達するように作用するかの分析に集中するあまり、広告が本来的にその目的を達しうる力をもつものであることを半ば当然の前提としてしまい、〝広告〟のアリバイ作りに知らず知らずのうちに手を貸してしまっていたのかもしれない。また、広告を「大衆文化のなかのすぐれて前衛的な表現」(11)としてとらえる近年の広告ジャーナリズムや、「テレビCMは『商品についての言説』として一定のアリバイをこなさなければならない…が他方で、テレビCMは『人間についての言説』である」(12)とする広告アカデミズムによって、〝広告〟は新たな存在理由を確保しつつあるように思える。それが「人間についての言説」であることは確かに一面の真理だろう。だが、それを強調することは〝広告〟がそもそも「商品についての言説」であるという裏面の事実を覆い隠すように作用してしまう。むしろ〝広告〟は「商品についての言説」であるために「人間についての言説」であることの方をアリバイとしてこなさなければならないのではないか。

 これらのような広告についてのメタ言説さえも、消費社会は自らを作動させるために吸収し、〝広告〟のもつ逆説性を不問に付すために利用してしまう。小論が、いかに〝広告〟が機能しているかではなく、なぜ機能している(かのように現象しうる)のかを問題にした機縁はそこにある。

文献
Abstract

   From the view point of Speech Act Theory, advertising is also counted as a sort of speech act. The speech act of advertising has a paradoxical nature. The purpose of advertising is essentially to make the audiences buy/consume commercial products, and it is recognized widely by the audiences. It is quite natural that the audiences' recognition of that purpose should prevent advertising from achieving its purpose. But actually advertising appears to attain that purpose. Why and how does this occur? This is the very problem which I try to answer in this paper.

TSUJI Daisuke, 1998
Advertising as Speech Acts
Journal of Mass Communication Studies, No.52, pp.104-117

辻大介の研究室  |   ページトップへ