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若者におけるコミュニケーション様式変化
―― 若者語のポストモダニティ

辻 大介, 1996 『東京大学社会情報研究所紀要』51号, pp.42-61

1.はじめに
2.若者コミュニケーションの現在
3.若者の対人関係意識の変質
4.若者のコミュニケーション行動の変化
5.言語行為としての若者語
6.若者語の「やさしさ」指向
7.結びに代えて
  / 文献 / Abstract

1.はじめに

 1980年代以降、「コミュニケーション不全症」「対人関係困難症」といった疾病のメタファーでもって、若者に関する一つの現代的傾向が盛んに指摘されるようになった。これは、80年代後半の連続幼女誘拐殺人事件をきっかけに、いわゆる「オタク」的若者像へと結晶する。この「オタク」的若者像に重ねて描かれるのは、対人関係の遮断とそれを代補するメディア・情報環境、という図式だ(新井[1993])。この図式は、オウム真理教事件をめぐる報道・議論の中で、今また改めて変奏されつつあるように思う。

 確かに、こういった図式のあてはまる「オタク」的若者は増えているのかもしれない。また、今の若者全般と「オタク」的若者の間には、確かにある種の共通性・連続性があるようにも感じられる。が、部分にあてはまる図式を性急に全体へと敷衍することは“烏は黒い、烏は鳥、ゆえに鳥はみな黒い”式の誤りを犯しかねないものだろう。仮に《モダン-ポストモダン》という軸で若者のコミュニケーション・対人関係変化を考えるとして、それが《開かれた-閉じられた》という軸に単純に等置されかねない先の図式は、若者の端くれたる筆者の実感にどうもそぐわない。若者の全般に関して現在進みつつあるコミュニケーション・対人関係の変化は、もう少し微妙なものであるように感じられるのである。

 そこで本稿では、先ず、はたして若者が「対人関係の切断・メディアによる代補」という方向に向かいつつあるのかを、統計資料を基にマクロな観点から検証する。次に、若者の対人関係(意識)の変化を同じく統計資料から概観した後、よりミクロな観点から若者の発話様式(=若者語)を分析し、対人関係変化と関連づけて考察することにしたい。

2.若者コミュニケーションの現在

 高度成長期以降の若者論は、既に述べた通り、一つの共通論調をもっている。それは、若者が相手と正面から対峙してコミュニケーションを行う・対人関係をもつことを嫌う・恐れる・苦手とするようになってきている、というものだ。例えば、どんな局面でも当事者にならず第三者でいることを望む《モラトリアム人間》(小此木[1978])、競争原理を忌避する《やさしさ》指向(栗原[1981])、対人関係に適応過剰・不能を示す《コミュニケーション不全症候群》(中島[1991])、他人と一線を引いて衝突を避ける《マサツ回避の世代》(千石[1994])、互いを傷つけないことに過敏な《やさしさの精神病理》(大平[1995])、等々。こういった若者像の最もネガティブな極にあるのが「人間本来のコミュニケーションが苦手で、自分の世界にとじこもりやすい」*1とされるいわゆるオタクであるわけだ。このオタク的若者像は、89年に連続幼女誘拐殺人犯として逮捕された「オタク青年」が大量のビデオテープを所蔵していたことから、稲村[1986]が《機械親和性対人困難症》と呼んでいた若者像とも結びつけられ、メディア・情報環境の発達との関連で盛んに語られるようになった。この語り口を新井[1993:192f]は次のように整理している。

八〇年代後半となり、メディア環境のいっそうの発達と、情報消費的な感覚が議論に加わりはじめることで、議論上では受け手はメディアとの関わりをさらに濃密化し、コミュニケーション先にある他者との関係を希薄化させていく。その延長線上にあらわれた現在の議論がおたくやメディアサイボーグ…であろう。これら若者像に共通するのはメディア機器との過剰な関係による対人関係の切断という図式である。…受け手が本来めざすべきコミュニケーション先=他者よりも、文字どおり他者とのコミュニケーションの「媒介」にすぎないはずのメディアとより深い関係を結び、もっぱら対メディア関係によって自我を構築することで他者は形骸化、最終的には不要となるわけだ。……。これは、…極言すればもっぱら情報化が若者の行動様式を変容させていき、人間関係が消滅するという議論におちつく。

 さて問題は、このような議論を現在の・または近い将来の若者全般に──若者の一部にではなく*2──あてはめて考えることの妥当性である。その妥当性を裏づけるには最低でも、若者の間で全般的・平均的に対人コミュニケーションが減少している(それに代わってメディア接触が増加している)ことを示すデータが必要だろう(ibid.:193)。

 しかし、対人関係の不活発な若者ほどメディア利用頻度が高いという調査結果はなくはない(橋元他[1992:92f]:だがこれも統計学的に意味のある差には至っていない)ものの、若者全般について対人関係が不活発になっていることを示すようなデータはひとまず見当たらないのである。むしろ数値上はその逆が示されている。例えば、15~23歳を対象とした青少年調査の結果から「心をうちあけて話せる友人の数」をみてみよう(図1:総務庁[1991:91]より作成)。その数は80~90年で増加傾向にあることがわかる*3

図1

図1 心をうちあけて話せる友人の数
(Fig.1 Number of Confidential Friends)

また、「生きがいを感じるとき」(9選択肢から複数回答)をみても、友人や仲間といるときを挙げる者は6割以上にまで増加している(図2:総務庁[1991:141]より作成)。

図2

図2 生きがいを感じるとき
(Fig.2 Situation to Find Life Worth Living)

さらに94年に19~22歳を対象に行われた調査から「自分にとってなくてはならないメディア」をみてみよう(図3:博報堂生活総合研究所[1994b:187]より作成)。一瞥して明らかなように、「友人・知人との会話」と答えた割合が他のメディアより群を抜いて高い*4

図3

図3 「なくてはならないメディア」の評価
(Fig.3 Evaluations of Communication Media as Indispensable)

無論、これらは友人との対人的接触・コミュニケーションの時間や頻度の増加を直接示すものではない。また、多分に主観的な評定による数値であるため、実際に友人数が増えているかなどといった点にも留保を要する。だが、そういった点を差し引いて考えるとしても、「対人関係の切断-メディア・情報環境による代補」を若者が指向しているという一面的な図式への反証としてはとりあえず十分だろう。

3.若者の対人関係意識の変質

 若者にみられるのは、対人関係の切断(メディア・情報環境による代補)という単純な自閉傾向ではない。だとすると、彼ら・彼女らの対人関係への性向というのは、より精確にはどのようなものなのだろうか?中高生を対象としたNHK放送文化研究所の調査(謝名元[1988:14f])は、この点について一つの興味深い結果を提示している。それによると、親友であっても「心の深いところは出さないでつきあう」と答えた生徒が中学生で25.5%・高校生で22.5%、「ごく表面的につきあう」と答えた生徒が各17.5%・7.7%となっており、両者を併せるとそれぞれ40%・30%を超えるのである。また別の若者調査(対象19~22歳)でも、「親友に対しても自分のすべてはさらけださない」という割合は52.2%にまで上っている(博報堂生活総合研究所[1994a:42])。これらの調査結果は、前節にみた「心をうちあけて話せる友人の数」の増加と一見矛盾するものであるように思える。この矛盾を“アンケート調査の結果などは設問のたて方次第でいくらでも変わるものであり、所詮それは現実の表層を反映したものにすぎない”といった批判で片づけてしまうことは容易い。が、この批判の正当性を認めた上で、逆に次のように考えることはできないだろうか。即ち、若者の対人関係意識は設問のたて方次第で矛盾した結果が容易にでてしまうほど、微妙なものになってきているのではないか、と。

 この点についてもう少し詳しくデータを追ってみることにしよう。図4は前掲の若者調査から、「人づきあいは面倒くさいと思うことが多い」「誰とでも友達になれる方だ」という項目に対する19~22歳と29~32歳の回答結果を抜き出し比較したものだ(博報堂生活総合研究所[1994b:85]をもとに作成)。

図4-1
図4-2

図4 交遊・交際に関する意識
(Fig.4 Attitude on Interpersonal Relationship)

20歳前後の方が、人づきあいを面倒と思わず、自分を誰とでも友達になれる方だと考えていることがわかる(前者については、計算したところ統計学的にも有意味な差p<.01になっている:χ2検定)。もちろん、30歳前後になると社会人としてのつきあいが増えるだろうから、そのために「人づきあいは面倒くさいと思う」ことが多くなっている可能性はある。しかし、それならば20歳前後でも学生/社会人で回答が変わってくるはずだが、そこには差はみられない(「いいえ」回答は学生66.0%・社会人67.5%でほぼ同比率)。ここからはやはり、若い層ほど対人関係により積極的な態度を示し、対人関係面での能力についてもより高い自己評価をもっていると言えそうだ。

 しかし一方では、この対人(友人)関係への積極さは、必ずしもその関係の“強さ”につながるものではない、ということも同じ調査の結果から窺い知ることができる。図5は友人・仲間との関係にまつわる設問の回答をいくつか抜き出したものだ(博報堂生活総合研究所[1994a:39f]をもとに作成)。

図5-1
図5-2
図5-3

図5 若者の友人関係の変化
(Fig.5 Changes of Friendship in the Japanese Youth)

84年に比して94年では、仲間と行動すること・仲間の目を気にすること・仲間と溜まり場をもつことがいずれも減っていることがわかる(後二者については統計学的にも有意な差p<.001)。友人関係の紐帯・拘束力はこの10年間で弱まってきていると言えそうだ。こういった「希薄」とも形容されることの多い対人関係に、彼ら・彼女らはある種の居心地のよさを感じている様子も調査結果からは窺える。「仲間といる方が落ちつく」か「一人でいる方が落ちつく」かという設問に対して、前者を回答する割合が84年44.3%から94年では49.9%とほぼ半数にまで増加しているのである(p<.01で統計学的に有意)。

 以上のデータが示しているのは、[i]対人関係そのもの(をとりもつこと)には積極的、[ii]その対人関係に「強く」あるいは「濃く」関わること・拘束されることには消極的、という半ば相反するようにも感じられる若者の姿ではないだろうか。が、「半ば相反するように感じられる」というのは、おそらくは旧来の対人関係の姿を基準にしてであって、原理的にこれらが矛盾するものであるわけではない──近づきすぎれば棘に刺され、遠ざかりすぎれば凍えてしまうSchopenhauerの「ヤマアラシのジレンマ」的状態ではあるかもしれないが。考えてみれば当たり前のこの[i]と[ii]の区別を、にも関わらず若者をめぐる従来の議論はややもすれば看過してこなかっただろうか。[ii]の消極性の背後にあるのは確かに、何人かの論者の指摘したような《やさしさ》指向や《マサツ回避》といった性向──つまり、対人関係を強く取り結ぶことによって、相手を傷つける・相手から傷つけられることや対人的な煩労から逃れ難くなることを忌避する性向だろう。だが、そのことは必ずしも[i]の消極性を帰結するものではない。若者における対人関係変化の実情は、[i]の対人関係(あるいはコミュニケーション)そのものに対する+の指向と、[ii]その対人関係の強さ・濃さに対する+の指向を半ば暗黙的に等置し、それが-へと反転したとする一面的な図式においてではなく、むしろ[i]=[ii]→[i]≠[ii]へと+-が捩れていく過程として捉えるべきもののように思われるのである。

4.若者のコミュニケーション行動の変化

 このような若者の対人関係意識の変化は、当然彼ら・彼女らのコミュニケーション行動にも影響を及ぼすだろうと考えられる。図6は、前掲の若者調査から「友達とのコミュニケーションを円滑にする(維持する)ために必要だと思うこと」(10選択肢から複数回答)の上位5項目を抜き出したものだ(博報堂生活総合研究所[1994b:88]より作成)。

図6

図6 コミュニケーションを円滑にするために必要なこと
(Fig.6 Conditions to Be Needed to Get Along Well with Friends)

「まめに会う」「まめに電話をかける」などは、[i]対人関係そのものへの積極性に対応するものと、「べったりしすぎない」「相手のことを否定しない」などは、[ii]その相手と強い・濃い対人関係をもつことへの消極性に、それぞれ対応するものと考えられよう。  こういった対人コミュニケーションへの態度(専ら[ii]に関するそれ)は、近年若者のことば遣いの端々にすら見受けられるようになった。それは、次のような新聞記事からも察知することができる(下線は引用者による)。

若者の「とか」弁に、今年も悩まされた。「コピーとか必要ですか?」「会議とかやるんですか?」。「みたいな」「というか」「だったりして」なども多い。いずれも、ものごとを断定せずにそれとなくはぐらかす表現。「斜に構えて、相手に真正面から対することをよしとしない若者の心模様がかいま見える」……。「ビジネスではごまかしの言葉は通用しない」といっても、なかなか直らない。複雑な人間関係から逃げる根本が変わらないと直らないと、思っている。
〔社員研修員の談話:93年4月22日付読売新聞東京版朝刊〕
若者の間では…言い回しの節々に、相手との対立を避けたがる表現が目立つ。その代表格がイエスの代わりに言う「そうですねぇ」とノーの代わりの「~って言うか」。…例えば――「親ナンカはそんなアルバイトやめろトカ言う」(でも、仕事には満足してるんだろ?)「そうですねぇ、って言うか、やっぱり時給がいいからやってる部分が大きい。でもそろそろやめようかなーみたいな」。一応相手の言い分を認めるふりをしたうえで「~って言うか」で、ちょっと違う、と否定する。
〔93年8月25日付毎日新聞東京版朝刊「若者ワードウォッチング」〕
学習塾を経営している清水ひさ子さん(四六)は最近、中学生らが主語を遠回しに使っているのが気になり出した。友達を「○○とかいって」、先生を「○○とかいうのが」など。「とか」弁はもう定番になっている。…テストで非常に悪い点を取ってしまったというかわりに「おれのテストももう終わった」とか、「死んでる」とかいう。…具体的な描写はなく、巧みに一般的な言葉にすり替えられている。だから、過激な言葉のわりにはお互いに傷つくことはない。…対人関係でぶつかり合わないための心理予防ではないか、と清水さんは見る。…〔中略〕…鶴見大学助教授の間宮厚司さんは最近、自分のことを他人事のようにいう学生が多いのに気がついた。「私って、優柔不断な人なんです」と言い訳をする。…「第三者がもう一人いるみたい。自分でないかのようにいったほうが安心なのかもしれない」と間宮さんはいう。
〔93年10月20日付朝日新聞東京版朝刊「いま東京語は」〕

若者語については、ことばの乱れとしていわば語彙論・統語論的な側面でとりあげられること(「ら抜き」ことばなどは記憶に新しいところだろう)や、不可解さ・ナンセンスさといった意味論的な側面でとりあげられることが多かったが、近年は上のように言語使用の対人関係的な側面=語用論的な側面でとりあげられることが目立つようになってきた。

 これと軌を一にして、『現代用語の基礎知識』(自由国民社刊)の「若者用語の解説」欄にも、ある興味深い解説のされ方をする若者語が現れ始める。この欄は「◆パンピー…一般ピープル。一般の人たち。普通の人」といったように、辞書風に若者語の意味を説明する形式をとっているが、92年度版以降、次のように「無意味」な語とされる項目が現れるのである(前年度の若者語が収録されるため、実際に出現したのは91年度以前)。

◆~っていうか 特に意味なく表現を和らげる。 〔92・93・94年度版〕
◆~とか 表現を和らげる無意味なつけ足し。 〔93・94・95年度版〕

これらの語は一般的にも用いられるものだが、若者語としてのそれらは趣を異にしている。例えば「東京行って街をぶらぶらするのが好き」と言えば済むところを「東京とか行って街とかぶらぶらするのとか好き」と言う。それゆえに「無意味」とされるわけだ。

 つまり、90年代に入って、意味(論)的にはゼロの内容しかもたない、専らその役割を対人関係的・語用論的な機能に偏らせた若者語が登場したのである。これらの若者語は、対人関係的な側面においてどのような方略をもつものであるか?次に、この点についての分析を進めていくことにしたい。

5.発話行為としての若者語

 若者語を分析するにあたって、以下では発話行為論(speech act theory)の理論枠組みを援用する。そこでまずは、発話行為論についてごく簡単なとりまとめを行っておこう。

 ことばとは、それとは独立に存在しているできごとやものごとを表す(represent)ものである。こういった考え方は現在でも一般通念に近いものだろうし、発話行為論以前の哲学者もほぼ同様の考え方をしていた。例えば、「雨が降っている」ということばはある特定の天候のことを表すものである、といった具合である。

 しかし、ことばにはこのような捉え方からでは見落とされてしまう側面がある。それを初めて明確に指摘したのが、言語哲学者のJ.L.Austin[1962=1978] だ。「私は禁煙すると約束します」ということばを例に取ろう。この禁煙の約束は、予め存在していた・または未来に存在するだろうできごとを表すものではない。今まさにそのことばを発することにおいて“禁煙の約束”というできごとが生み出されたのである。別の言い方をすれば、そのことばは約束を生み出す一つの行為、あるいは約束という行為そのものであるわけだ。

 ことばは、それと独立に存在するできごとを表す『意味(meaning)』の他に、一定の行為を遂行する『力(force)』(=発語内の力illocutionary force)をもつ。これがAustinのなした言語観の転回点である。この力はそのことば(発話)がどのような行為ととられるべきかを示すものとされる(ibid.:128)が、見方を換えるなら、話し手と聞き手の間に或る対人関係を設定する(Herstellung interpersonaler Beziehung)力と考えることもできる(Habermas[1976])。先の話し手が禁煙の約束を破って一服しているところを聞き手が見つけたとしよう。このとき、聞き手はそれを正当に(richtig)非難することができよう。それはいわば契約不履行に類するようなものだからだ。つまり、「…約束します」という発話によって話し手は聞き手に対して責任(Verpflichtung)を負うことになり、それによってある種の対人関係が取り結ばれることになるのである。

 事情は、一見事実を言い表しただけとみえる「雨が降っている」といった発話の場合も基本的には同様である。それを聞いたため、聞き手は傘を用意して戸外にでたとしよう。ところが、雲一つない晴天だった。このとき、聞き手は「どうして雨が降っているなんて言ったんだ、おかげで邪魔な傘を持ち歩くはめになったぞ」などといったように、話し手の発話の妥当性(Geltung)を問うことができるだろう。話し手は、発話を行った際(基本的に・潜在的に)その発話の妥当性を主張していたはずだからだ。こういった妥当性の主張(Geltungsanspruch)を伴うことによって、発話行為一般は対人関係を設定する力をもつ。「とどのつまり、話し手が聞き手に…発語内の力を及ぼすことができるのは、…事後的に検証可能な(nachprufbar)〔発話の〕妥当性の主張と結びついて発話行為特有の責任が生じるからであり、つまりは〔話し手と聞き手の〕相互的な結びつき(Bindung)が合理的基盤をもつからなのである」(ibid.:251)。*5

 さてそれでは、具体的な若者語の分析にとりかかろう。まず手始めに「とか」をとりあげる。一般用語としての「とか」の辞書的な説明は次のようなものだ(岩波書店刊『広辞苑第四版』より抜粋、用例は一部改案)。

一. 1) 例示し列挙するのに用いる語。「雨とか雪とか」
2) 一つの物事だけを挙げ、他を略して言う、または、それと特定しないで言う表現。近年の用法。「コーヒーとか飲んだ」
二. 内容が不確かである意を表す。「山際とかいう人」

「とか」にはそもそも、大きく分けて例示列挙と内容不特定化の二つの用法があると言えるだろう(若者語としての用法は、言うまでもなく後者の延長線上にあると考えられる)。が、これらの用法は截然と二分できるものではない。「山際とか山沢とかいう人」などの中間事例がすぐに見つかるからだ。むしろ「山際とかいう人」などの不特定化の用法は、続く「○○とか××とか」の部分を省略しそれを言外に含ませた、例示列挙の派生的用法と考える方が適当だろう。では、このような「とか」は対人関係的にどのような機能をもちうるだろうか?外出から戻ってきたAにBが、(1)「ヤマギワという人から電話がありました」と言った場合と、(2)「ヤマギワとかいう人から電話がありました」と言った場合について考えてみよう。Bが取引先に電話し直してみたところ、山際氏ではなく山沢氏からの電話だったことがわかった。このとき、Aは間違ったことを言ったことになるかどうか?(1)の場合は確かに間違ったことを言ったことになろう。山沢氏は「ヤマザワという人」であって「ヤマギワという人」ではない。だが(2)の場合、「ヤマギワとかいう人」でないかどうかは微妙なところだ。先に述べた通り、この表現は「山際[ヤマギワ]」以外に(それに似た発音の「山川[ヤマガワ]」「柳葉[ヤナギバ]」等々の)選択肢を言外に潜在させており、そこに「山沢[ヤマザワ]」が含まれないかどうかは多分に主観的な判断による。(2)の場合、(1)の場合ほどには“Aは間違ったことを言った”と言い切れないのである。

 したがって、電話をかけてきたのが「山際」でなかったとき、(2)の発話者はその責任を(1)の発話者ほどは問われない立場にいることに原理的にはなる。発話行為によって設定される対人関係上の立場(Bにかかってきた電話に関する情報の提供者としての立場)に変わりはないものの、発話者は「とか」を用いることで発話の妥当性主張を弱め、その立場に伴う責任を僅かなりとも(原理的には)回避することができるわけだ。これは別の言い方をすれば、発話行為の設定する対人関係の強さを弱める・対人関係(上の立場)へのコミットを緩和するということでもあろう(以下、便宜的にこのことを指して「コミットの緩和」と呼ぶことにする)。若者語の「とか」は、そもそもそのことばのもっていた内容の不特定化という役割を形骸化し、役割の重心をこの点に変則的なまでに傾けたものとみることができる。

 こういった「とか」と同じ方略でコミットを緩和するものに、例えば「しぃ」*6がある。接続助詞の「し」は、通常「どうして勉強しないんだ?」「バイトで時間ないし疲れるし」などのように(理由の)並列に用いられるが、若者語の場合は「俺って頭悪いしぃ」などのように並列部が落ちる。並列部を言外に置くことでコミットを緩和するわけだ*7

 「っていうか」や「って感じ」「みたいなぁ」*8も、やはり同様の方略でコミットを緩和する若者語に思えるが、そこには別種の方略も付加されているようにも思える。

 これらは通常の用法とは違って、次のように言い切りの後に付加される。

(この服はどうかな?)
「私は好きじゃない、って感じ」
(あの教授の講義おもしろい?)
「超眠い、みたいな」

さて、「好きじゃない服」「眠い講義」ではない、「好きじゃないって感じの服」「眠いみたいな講義」とは、どういう服・講義のことなのだろう?ここには何がしかの違和感がつきまとう。しかし、これらの表現を次のように考え直すならば、この違和感はいくぶん解消されるのではないだろうか。

「『好きじゃない』って感じの(ことばがあてはまる)服」
「『眠い』みたいな(ことばがあてはまる)講義」

つまり、それぞれを〈服〉〈講義〉にかかる修飾句ではなく、〈ことば〉にかかる修飾句と考え直すのである。

 周知の通り、ことばについては“使用(use)/言及(mention)”という区別がたてられる。例えば、(a)「私は日本人だ」と(b)「『私』は日本語だ」には同じ「私」ということばがでてくるが、(a)の「私」が特定の人物を指しているのに対し、(b)の「私」はそのことば自身を指している。つまりは、「『私』(ということば)は日本語だ」と述べられているわけだ。ここで乱暴さを懼れず、仮に現実世界のレベル・[](ground)の言語(発話)レベル・メタの言語(発話)レベルという区分をたてるなら、(a)の発話者は[]の言語レベルに立って「私」を“使用”し、現実世界のレベルのことについて述べている/(b)の発話者はメタの言語レベルに立って「私」に“言及”し、[]の言語レベルのことについて述べている、というように言い表せるだろう。

 この観点から、先のように考え直された(“使用”ではなく“言及”と考え直された)「私は好きじゃない、って感じ」「超眠い、みたいな」を分析してみよう。発話者は一旦、素のまま「好きじゃない」「眠い」と述べる。その後、一拍おいて「って感じ」「みたいな」を付け加えることで、その述べたことについて述べるメタレベルの立場に身を翻すのである。このとき、「って感じ」「みたいな」は、直前のことばを括弧(bracket)に入れ、それを“使用”から“言及”へと、発話者の発話地点を素のレベルからメタレベルへと転調(keying)させる(Goffman[1974:40-82,251-69])機能を果たしているわけだ*9

図7

図7 発話行為の転調
(Fig.7 Keying of Speech Act)

「私は好きじゃない」「超眠い」という発話によって設定される対人関係へのコミットを、発話者は「って感じ」「みたいな」を付して転調することで間接化する。この点において単なるコミットの緩和とはやや異なっているように思えるのである。

 もう一つ別のタイプの若者語を分析しておこう。ここ数年、「文の途中で、疑問の意味でもないのに、語を尻上がりに発音する」半クエスチョンと呼ばれる言い回しが若者を中心に目立つようになった(佐竹[1995:53])。

同意を求めているのに、ものを尋ねるような「疑問符おしゃべり」にイライラします。……。例えば、『仕事?を続けるには、気力?体力?知力?そういうものが備わっていないとなかなかむずかしい?』…このしゃべり方をする人は快感をともなってくるようで連発します。聞いてる方はいちいち、あいづちを打たされます。
〔94年7月2日付朝日新聞東京版朝刊「いま東京語は」への投書〕
〔最近、気になる若者のことば遣いをみつけた。〕知っている単語にわざわざ疑問符をつけ、一呼吸置くやりかたである。「昨日、ナタデココを食べておいしかった」というところを「昨日食べたんだけどぉ、ナタデココ?おいしかった」という具合だ。
〔95年6月28日付朝日新聞東京版朝刊の投書欄より〕

堀内・大森[1994:73]は、文中に不確かなことばが入るとそこで上昇調になり相手の確認をとりつけるのだと分析しており、佐竹[1995:59]も「ことばの選び方にミスがあるのではないか、そのことばでは聞き手に通じないのではないか…といった不安が半クエスチョンとなって表れていると考えられる」と述べているが、上にあげた投書中の例をみても、およそ見当外れと言わざるをえまい。「仕事」や「ナタデココ」が不確かなことば・聞き手に通じないのではと不安になるようなことばとは思えないからだ。

 確かに通常は話し手の不確かなことばに疑問符が付されるものだろう。例えば「昨日、uhh, amusement park、遊園地?に行きました」などのように外国人の話し口にはしばしばこの半クエスチョンがみられる。「遊園地?」の部分で言外に(amusement parkにあたる日本語は『遊園地』でしたか?)(そうだよ)というやりとりがなされるわけだ。さて、ここで注意すべきは、話し手のことばに対する不如意さなどではなく、むしろ「昨日、遊園地に行きました」という最終的な発話行為の完成に(通常の場合とは違って)聞き手も関与しているという点である。「遊園地?」の部分で聞き手の確認・同意が得られなければ、この最終的な発話は完成され得なかった。したがってまた、それによって設定される対人関係も。つまり、話し手の発話による対人関係設定に聞き手も加担させられてしまっているのであり、それに伴う責任もある種の奇妙な形で分担させられてしまっているのである。この点については、若者の半クエスチョンの場合でも事情は同様である。若者語としての半クエスチョンは、ことば(遣い)への不安の表れというよりむしろ、発話による対人関係設定に聞き手の加担を引き込む方略とみるのが適切だろう。

6.若者語の「やさしさ」指向

 他にも対人関係設定の面に特徴をもつ若者語はいくつかあるが、紙幅の制限上それらの分析は別稿に委ねるとして、こういった若者語の『対人関係設定』機能という点について若干の考察を加えておこう。一つ注目しておきたいのは、これらの若者語がコミットの緩和された(あるいは間接化された)・責任の分担された話し手-聞き手関係の成就に、必ずしも成功しているわけではないということである。このことは引用した記事・投書中に「『ビジネスではごまかしの言葉は通用しない』と言っても直らない」「半クエスチョンにいらいらする」といった発言がでてくることからも窺えよう。つまり、「話し手と聞き手の結びつきの基盤」となるはずの「発話の妥当性の主張」、その主張の仕方が聞き手を苛立たせ、結びつき=対人関係そのものを破綻させかねない結果*10をもたらしている、つまり、対人関係の『マサツ回避』を狙ったはずの発話様式が逆に対人関係の摩擦をうむ種にもなってしまっているのである。この逆説はどういうことなのだろう?

 若者の『マサツ回避』的な『やさしさ』指向について、大平[1995:167]はある興味深い指摘をしている(下線は引用者)。

こういう風潮の中で、やさしさもさらに変化してゆきます。それは、治療としての「やさしさ」から予防としての“やさしさ”へという変化でした。お互いのココロの傷を舐めあう「やさしさ」よりも、お互いを傷つけない“やさしさ”の方が、滑らかな人間関係を維持するのにはよい。そういうことになったのです。

若者語も、こういった“予防としてのやさしさ”による対人関係摩擦回避の一つの方略とみることができるのではないだろうか。「とか」「みたいな」や半クエスチョンを用いることで、自分が強い・濃い対人関係を指向する者ではないことを言外に聞き手に伝える。これを聞き手が受け入れれば、その相手とは摩擦の起きにくい互いを傷つけない対人関係をもつことができる。聞き手が受け入れなければ、その相手は互いを傷つけかねない強い対人関係を指向する人物なのだから、そういった相手と対人関係をもつことを予め避けられる。このようにして若者語は、対人関係を結ぶ相手を選別するセンサーの役割を果たしているように思えるのである。対人的な選別指向というのは数字の上でも確認することができる。この10年間に「友達は気の合った者がいればいい」という若者が1割以上増えているのである(図8:博報堂生活総合研究所[1994a:40]より作成)。

図8

図8 友人関係に関する若者の意識変化
(Fig.8 Change of the Youths' Attitude on Friendship)

 このような傾向は確かに「自閉的」と呼べる種類のものかもしれない。しかし、改めて強調しておくが、それは対人関係・コミュニケーションの全面的な遮断へと向かう種類のものではないのである。対人関係・コミュニケーションそのものへの指向は相変わらず保たれて(むしろ数値上では強まってさえ)いることは既にみてきた通りだ。そこから生じる「ヤマアラシのジレンマ」への一つの回答、それが若者語という発話様式なのではないだろうか。

7.結びに代えて

 以上にみてきたような、《やさしさ》指向に彩られたコミュニケーション・対人関係意識というのは、どこからやって来たのだろうか?また、どこへ行こうとしているのだろうか?最後に、これらの問いに対して本稿なりの暫定的な方向づけをしておきたい。

 前者は、取り扱いに非常に注意を要する問いであるように思う。むしろ問われるべきは、このことがなぜ問い足りうるのか、即ち、若者の《やさしさ》指向というものがなぜ殊更に現代的な“問題”とされるのか、ということかもしれないからだ。

 妥当性の主張を強く掲げたコミュニケーション・それに伴う責任と対人関係を強く保つことというのは、それほど自明視すべきものなのだろうか。むしろ筆者には、「ヤマアラシのジレンマ」を自らの内に背負い込まず、彼ら・彼女らなりの対処法を見いだした若者のコミュニケーション・対人関係の方がある意味では自然な成り行きのようにも思える。適当な距離を超えてまで相手に近づく(強い対人関係をもつ)ということは、互いが互いの「棘」の痛みに耐えなくてはならないということだ。こういった痛みを堪える「ヤマアラシ」の姿を、同僚や上司に迷惑をかけるからと言いながら体調不全をおしてまで出勤し、過労死に至る会社員の姿に重ねてみるのは、穿ちすぎというものだろうか。摩擦を恐れないコミュニケーション・強く取り持たれる対人関係というのは、あるいは「近代」(資本主義)という制度に特殊な要請であるのかもしれない。ならば、若者語はささやかながらもそれに抗しようとする「脱近代」の知恵ということになるだろう。しかし、これ以上の憶断は目下のところは慎まなければなるまい。

 後者の問いについては、当然ながら、社会の情報化が今後さらに進展していくにせよ、対人コミュニケーションや対人関係がメディア・情報環境に完全に代替されてしまうことはないだろう、もう少し精確に言えば、仮に対面的なコミュニケーションが全てメディアコミュニケーションに置換されるようになったとしても、それはやはりあくまで人と人を媒介するコミュニケーションに留まり続けるだろう、というのが、筆者の基本的な見解である。現在の電子メディアの発展動向──例えば、インターネットに代表されるComputer-Mediated Communication──をみても、それは再び人と人の“媒介”という色合いを強めつつあるようにも思える。こうした電子メディアによる媒介は《やさしさ》指向のコミュニケーション・対人関係意識にますます微妙な色合いを加えていくだろう。 一つには、電子メディアによるコミュニケーションは「対面関係の全体性に埋め込まれ」ていないため(Poster[1990=1991:11])、コミットの緩和されたコミュニケーションを実現しやすいという考え方がありえよう(Computer-Mediated Communication=Commitment-Mitigated Communication?)。例えば、コンピューターを介したインタビュー調査と対面調査を比較した場合、前者の方がより「応じやすい」「気楽」という結果がでている(川上他[1993:174])。また、原田[1993]の行った対面・テレビ電話・電話・電子ネットワークを介した対話の比較実験でも、『話しやすさの感情的評価』因子のスコアは電子ネットワークを介した対話の場合が最も高いという結果になっている。こういった要因が《やさしさ》指向のコミュニケーションにどこまで適合・関連するものかについては即断を慎むべきだろうし、またComputer-Mediated Communicationには、ある種の感情的な諍い(flaming)が生じやすいという否定的な側面も認められる(Lea et al.[1992])。だが、こういった新たな種類の電子メディアの展開が、《やさしさ》指向のコミュニケーションに何らかの大きな影響を与えることは間違いないだろう。

 私たちはそろそろ、「ポストモダン」のコミュニケーションの姿について、「モダン」の予断に囚われず冷静に議論を進めるべき時期にきているように思われるのである。

文献
Abstract

   The recent Japanese youth is called 'yasashisa-sedai' (the generation of tenderness) or 'masatsu-kaihi-sedai' (the generation to avoid friction), which means their sensitive personality to evade hurting each other on their interpersonal relationships. Many people have discussed such a personality of the youth connecting with the development of information media, and some of them have emphasized the stereotypical youth figure called 'otaku' (nerd), who shuts off interpersonal communication and compensates it with media uses such as watching video, reading comics, playing TV games and so on. In this paper, I criticize this view which regards all the youths as going to be otakus by examining some recent statistical data on the young people, and show that the changes of their communication styles and interpersonal relations are more delicate one by analyzing some colloquial expressions peculiar to the young from the viewpoint of speech act theory.
   Roughly speaking, the attitudinal change of youths' interpersonal relations for the last decade has two important features. First, they do not have a more negative attitude toward interpersonal communication than before, or rather it is indicated by some statistical data that they have become more positive to it. Second, to the contrary they have more negative attitude toward committing to or being chained to the interpersonal relations strongly. To sum up, they have some paradoxical attitude like Shoepenhauer's "the dilemma of hedgehogs" which means that they hurt each other when too close but they are frozen when too apart.
   This attitude affects the youths' colloquial expressions. According to Habermas' universal pragmatics theory, the illocutionary force of speech act establishes some interpersonal relationship (Herstellung der interpersonaler Beziehung) between a speaker and hearer based on the claim of speech-act validity (Geltungsanspruch) held up by speaker, and a responsibility for the validity claim is put on a speaker. Some youths' colloquialisms have pragmatic strategies to weaken the validity claim, to shirk the responsibility to some extent, and to mitigate speaker's commitment to the interpersonal relationship established by his/her speech act. These colloquialisms result in playing a role of a sensor to distinguish persons who have a same interpersonal attitude of 'yasashisa' (tenderness) from those who have not, so they can avoid beforehand to have relations with a person who prefers strong interpersonal relationships easy to cause friction. This may be their own answer to the hedgehogs' dilemma.

Daisuke TSUJI, 1996
The Transfiguration of Communication Style in Japanese Young Moderns
The Bulletin of the Institute of Socio-Information and Communication Studies, the University of Tokyo, No.51, pp.42-61

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