書評『〈意味〉への抗い』

※以下は『図書新聞』に掲載されたものです

書評『〈意味〉への抗い――メディエーションの文化政治学』北田暁大著

辻 大介, 2004 『図書新聞』2695号(8月25日付).
ポスト‐マクルーハン時代のメディア論の到達点
〈意味〉へと回収されないメディア固有の位相をとらえる

 本書は、さまざまな媒体に発表された9編の論文から編まれている。そこで展開されているのは「真正の」メディア論である、と形容していいだろう。「(マス)コミュニケーション」論でもなく、「ジャーナリズム」論でもなく、「メディア」と名指すべき固有の位相をとらえようとする試み。それは、タイトルにあるとおり、必然的に『〈意味〉への抗い』をともなわざるをえない。なぜか。本書の紹介からは少し離れることになるが、評者なりに説明しておこう。

 メディアは、メッセージを伝える手段である。いまだ主流的なこの見かたからすれば、重要なのはメッセージのもつ意味であって、メディアはその使い走りにすぎない。それに対して、マクルーハンは「メディアはメッセージである」と唱えることで、メディアそれ自体に、メッセージと同等の力、作用があることを指摘した。それはテクノロジーとしての力であり、わたしたちの身体性を組み替えるような作用である。この作用は、一切れの棒を道具=テクノロジーとして用いるような、より単純なケースのほうが見てとりやすい。

 たとえば、それを武器として用いるとしよう。素手のときとは、相手との間合いのとりかた、腕の力の入れかた、等々、すべての身ごなしが変わってくる。それを打ち込んだときには、相手の肉や骨の感触を、わたしたちは(棒をもつ手ではなく)当の棒の先において感じるはずだ。このとき、もはや棒はわたしたちの身体の一部に組み込まれて(身体の「延長」となって)いると言っていいだろう。

 テクノロジーは、わたしたちが世界と接するあいだ――「メディア」の原義は「あいだ」である――に入り込み、その接しかた=身ごなしを組み替えていく。このような作用に、意味は介在していない。であるがゆえに、それは、意味に拮抗し葛藤する契機をなすのである。

 こうした、メディアのテクノロジーとしての側面が意味への抗いをはらむ位相を、本書は、ルーマンの情報/伝達論やシャルチエの読書行為論(1章)、中井正一(2章)やベンヤミン(3章)の媒体論を重ね合わせながら、まず理論的にあぶりだしていく。そこではむろん、テクノロジーがわたしたちのありようを決めるといった素朴な技術決定論は退けられている。一切れの棒が用いようによって武器にも杖にもなるように、同じメディア、たとえば書物であっても、音読という身ごなしがとられればテクストの集団志向的受容に結びつき、黙読という身ごなしは個人(内面)志向的受容と結びつく。テクノロジー=道具は、あくまで「使いよう」なのだ。

 その一方で、わたしたちの側がテクノロジーのありようを決めるのだといった素朴な社会構成主義からも距離がとられている。モノとして重すぎる棒は、武器として用いようとするわたしたちを疲れさせ、その意図に反して杖として受容されることへとズレこんでいくかもしれない。メディア‐テクノロジーのもつモノ性(物質性)は、使用者の意図=意味に抗い、ズレをもちこむ。本書にならって言えば、意味がメディアを通して伝達されるものであるなら、それはメディアのモノ性によってつねにすでに汚染される運命にあるのだ。であるとすれば、むしろ、意味なるものは、メディアにおいてそのつど事後的に発生すると考えなおしたほうがよいだろう。メディアの作用――メディエーション――とは、送り手から受け手へと意味を媒介(メディエート)することを言うのではなく、意味性とモノ性の抗争を調停(メディエート)することを言うのである。

 4章では、リアリティ・テレビが題材にとられ、テレビというメディアにおける意味の抗争が、日本と欧米それぞれの社会的文脈のなかでどのように調停されるか、その差異が剔出される。5章は、分析哲学者パーフィットの思考実験を皮切りとして、ベンヤミンの複製技術論のいわば「可能性の中心」を突きつめる。ここまでが「メディエーションの理論」と題された第Ⅰ部である。第Ⅱ部では、より「メディエーションの現場」に即した追究がおこなわれ、ポピュラー音楽にとっての歌詞(6章)、学術論文/ウェブにおける「引用」(7章)、戦前期における映画の受容空間(8、9章)が俎上に載せられていく。

 それらの内容を順に紹介していく紙幅はないが、たとえばポピュラー音楽を聴くとき、わたしたちはその歌詞の〈意味〉を、批評家や研究者がするように、きまじめに解釈し、分析しているだろうか。「気散じ」に聞き流す。そうした「緩さ」がポピュラー音楽の本質なのではないか。そのような「緩い」身ごなしのなかで、「歌詞(凡庸で非現実的で紋切的な言葉なのに)はなぜ・いかにして効くのか」。このような「歌詞の(メッセージではなく)媒介性をめぐる問い」を、〈意味〉への抗いをもって問い続けていくこと。多種多様な題材を貫いて、本書がおこなっているのは、そのような作業である。

 さて、読者はこの本をどのような身ごなしでもって受容するのだろうか。願わくは、テクスト(メッセージ)ではなく、メディアとして読まれんことを。本から意味(のみ)を読みとるという身ごなしに慣れたわたしたちにとって、それは思いの外、骨の折れる作業ではあるのだが。

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