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書評『不安定社会の中の若者たち――大学生調査から見るこの20年』片桐新自著
本書は、一九八七年から五年おきに行われた調査をもとに、この二〇年間における大学生の特徴と変化について論じたものである。評者は一九六五年生まれであり(著者の片桐さんは五五年生まれ)、初回調査の時点ではちょうど調査対象となる年次の大学生だった。その世代を代表して言えば――そうした世代論的な物言いにどれほど意味があるかは多分に疑問に思うもののあえて言ってしまえば――、良くも悪くも私にはこういう書き方はできないなあ、というのが率直な読後感であった。その点について述べる前に、調査方法と本書の内容を概略的に紹介していこう。
第一章「これまでの調査から語ってきたこと」では、一九八七~二〇〇二年調査の知見のポイントがまとめられ、全体の見通しが与えられる。第二章では「調査対象者に関する基本データ」が記述される。五回の調査の主な対象となったのは、桃山学院大学・関西大学・大阪大学・神戸女学院大学の社会学部系の学生であり、授業の際に配布回収する集合調査法が基本とされている。無作為抽出による標本ではないので、有意性の検定結果などはあくまで参考値にとどまる性格のものだが、この点が直ちに調査結果の妥当性の低さに結びつくわけではない。むしろ重要なのは、無作為抽出のサンプルとは異なる分析アプローチによって結果の妥当性を担保するやり方が採られているか、という点にある。
その一つとして考えられるのは、大学別に(さらには男女別などに分けて)分析したときに、共通の経年変化なり相関傾向なりが認められるかどうかである。共通性が認められれば、それは(少なくとも関西圏の文系の)大学生全般にあてはまる蓋然性が高いとみなしてよいだろう。このような分析手法上の配慮は、本書の随所にみられる。もっとも標本全体の集計・分析結果しか記載されていない箇所のほうが多いのではあるが、これは紙幅の制限からしても、記述が煩瑣になりすぎることを考えても、やむをえまい。ただ、その場合でも「大学別に分析した場合でも、およそ共通の傾向が認められるもののみを取りあげる」というような方針が明示されていたほうがベターではあろう。
また仮に共通の傾向が認められなくとも、それについて興味深い問題提起をなしうる場合などには、やはり有意義な知見と言えるだろう。この点で、たとえば大阪大学生について「エリート大学生らしい批判精神が弱まっている」(一六九頁)という指摘などは、大学別の分析に配慮せざるをえないことによって、逆に浮かび上がってきた貴重な論点だと思う。
分析についてもう一点だけ述べておきたいのは、主に単純集計レベルの経年変化が取りあげられ、相関レベルの経年変化の分析がかなり限られていることである。たとえば著者は、20年前の大学生には「個同保楽主義」が認められたが、個(個人主義)と楽(楽しく楽に生きたい)という側面が弱まり、同(同調性)と保(保守性)を残した「指示待ち症候群」的な若者へと変化したと論じている(一六七-七一頁)。確かに単純集計レベルの変化としてはそうかもしれない。しかし相関レベルでみたならば、はたしてかつての「個同保楽主義」とは一枚岩としてとらえられるようなものだったのだろうか。
半ば印象論になるが、「個」人主義と「楽」志向とが結びつき、「同」調性と「保」守性とが結びつくのはわかる。しかし、「個楽」と「同保」は概念的には相反しそうにも思える。この点については、二つの可能性が考えられよう。
①「個楽」と「同保」はもともと相関しておらず、「個楽」主義者と「同保」主義者がそれぞれ相当のボリュームで存在していた(一枚岩というより二枚岩であった)が、次第に「個楽」主義者たちが消えてゆき、「同保」主義者たちが増えていった。
②「個楽」と「同保」は相関していた=「個同保楽」として一枚岩をなしていたが、その相関が消えて、「同保」主義者へと変質した。
社会変動の観点からすれば、この違いは決して小さくない。①であれば、かつては二元的(多元的)な価値の並立を許容する社会であったのが、価値の一元化が進んだ、ということになる。②であれば、価値観のありようとしてはかつても今も一元的なのだが、その価値の内実が変わった、ということになる。今後問われるべき課題が、価値の一元化であるのか/価値の内実の変化であるのか、少なからず異なってくるわけだ。
評者は、著者がほぼお一人でこのような大規模かつ長期にわたる調査を継続してこられたことに最大限の敬意を表する者である。またそれゆえ、上のような相関分析あるいは多変量解析まで本書に求めるのは過大と言うほかないことも重々承知している。だが、お一人にあれこれ求めることに無理があるからこそ、この貴重なデータを他の――とりわけ自ら調査を実施できる機会に乏しい若手の――研究者も二次利用できるような方策をご検討いただけないだろうか。この場を借りてお願いしておきたい。
さて三章以降は、最新の二〇〇七年調査を中心に、イシューごとの分析と考察が行われている。ほとんどの章題が内容の見事な要約となっているので、ひとまず列記しておきたい(節題まで挙げるとさらにわかりやすいのだが、残念ながらそれだけの紙幅がない)。
三章「ジェンダーレス社会ではなく男女同等社会に向かって」/四章「仲良し親子の行方」/五章「友情がすべて」/六章「若者が行動する時~学生たちの社会活動」/七章「観客的社会関心~おもしろくなければ興味は湧かない」/八章「現状維持が一番~反抗しない学生たちの政治意識」/九章「手堅く生きる~学生たちの生き方選択」。
つまみ喰いの形になってしまうが、この中から、先にふれた「同」調性・「保」守性に関わる知見をいくつか拾いあげてみよう。夫婦別姓や、既婚女性が「職業を持ち続けた方がよい」については、一九九七年を境にむしろ支持率が下がる傾向にあり、また仕事観についても「転職はなるべくすべきでない」と思う者が増えている。自衛隊については「現状維持」派が一貫して増え続けており、保守性とは直接関係ないかもしれないが、授業に「よく出席する」と答える学生も増えている。一方、親や友人との身近な人間関係については概して良好ではあるが、授業や昼食、トイレを友人とともにするという「群れ行動」率が高まっており、男女差も小さくなっている。「自分はもう大人だ」「子どものままでいたくない」と思う割合も減っており、自立心の低下傾向がうかがえる。
こうした結果をもとに、著者は次のような苦言を呈する。「…大学生なら本来できなければならない自分の意見をしっかり主張するということができない学生ばかりになってきている。健全な競争すら差別になるかもしれないという臆病な学校教育と、少子化の結果過大な子育てエネルギーを持った母親たちの過度な保護の中で育ち、「傷つきたくない・傷つけたくない症候群」を身につけた学生たちは、言うべきことも言わない、毒にも薬にもならない明るいさわやかな若者を演じ続けている」(一六九-七〇頁)。
冒頭で述べたように、私にはできないと思うのは、このような一つの確たる価値観を前提にした書き方である。私であれば、良くも悪くも両論併記的な書き方になる。それは、昔も今も大学生(のみならず人びと)の価値観や行動様式は、その時どきの社会システムへの適応を示すものであり、その適応形態には多かれ少なかれ、道徳的・倫理的には正負両面が認められるはずと考えるからだ。「意見をしっかり主張する」者たちは、ときとしてその強制に至る。連合赤軍などはその強制が殺人にまで及んだのではなかったか。少なくともそのような追い込み方を、今の「言うべきことも言わない、毒にも薬にもならない」若者たちはしない。一方で、彼ら彼女らは関係性から弾き出され、シカトされることを恐れ、場合によっては自傷や自殺に追い込まれることもある。いずれも極端な負の事例ではあるが、そのどちらがマシとは私には言えない。また、いったんはその価値判断から距離を取り、「価値自由」たろうとするのが、社会学者の責務だろうとも思う。
しかしヴェーバーが厳しく注意を促すように、「価値自由」ならぬ「価値中立」派は、自らの価値基準を相対主義的に隠蔽するものである(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波文庫、四二頁)。私自身がその後尾に属する新人類世代――初回調査時の「個同保楽主義」者たち――について言えば、非政治的・没価値的であることをよしとするメタ価値を、まさにそのように相対主義的に隠蔽してきた部分があるだろう。また、そのような価値の相対主義の果てに、身近な人間関係と現状維持のほかに拠りどころをなくしたのが、現在の大学生の状況であるようにも思う。それをもたらした責任の一端を、私はその世代の一員として、また大学教員として負う。本書の著者とはまた別のスタンスから、いかにして価値を研究者として教育者として語ることができるか。これが評者の受け取った課題である。(いささか独り相撲めいてしまったが、片桐さんにお聞きしたいのは、ご自身の(世代の)価値観を今の大学生との対照のもとでどう評価されるか、また、それを本書の議論のうちに組みこむ必要はなかっただろうか、ということである。)
私自身の課題として上記のようなことを受け取ることができたのは、本書が、ある種の若者論にありがちなように、今の大学生に対する嫌悪から書かれたわけでは決してないからだ。かつて同じ職場に勤めていたこともある私は、本書を読みながら、教育熱心な片桐さんが学生たちと真摯に対峙し語りかけている姿をまざまざと思い浮かべていた。変な表現になるが、本書はそんな片桐さんの、学生たちへの常日頃の愛情を社会学的にまとめたものとも言える。いつか私もこのような本を書きたいと思う。