寄稿「ケータイと「とか」弁」

※以下は『学叢』に掲載されたものです

ケータイと「とか」弁
 今どきの若者のコミュニケーションスタイル

辻 大介, 1998 『学叢』62号(日本大学文理学部), pp.7-11

1.ベル友一〇〇人できるかな
2. 若者の“さびしんぼう”化というウソ
3. 「とか」弁のメンタリティ
4. ケータイは友人関係の「リモコン」
引用文献

 1 ベル友一〇〇人できるかな

 何年か前の話になりますが、「ベル友」という現象がマスコミをにぎわした時期がありました。あらためて説明する必要もないでしょうが、ベル友とは、もっぱらポケベルを通じて連絡をとりあうだけの友だちのことです。当初は数字しか送ることができなかったので、084(オハヨウ)などといった暗号めいたメッセージのやりとりが話題になっていましたが、一九九六年の春には、数字を文字に変換して一二文字まで受信できるポケベルが売りだされました。それとともに、おそろしい速さで公衆電話をプッシュする女子高生の姿を街で見かけるようになり、一度会ったきりの友だちや、友だちの友だちのポケベル番号に短いメッセージを送る若者のすがたがテレビに映しだされるようになります。

 NHKが「ベル友 一二文字の青春」というドキュメンタリーを特集したのもこの頃です。その番組は、個人情報誌「じゃマール」にベル友二〇〇人募集の広告をだした高校生を中心に、若者のポケベルを使った新しいコミュニケーションスタイルを紹介するものでした。そこで強調されていたのは、顔を会わせることも声をだすこともなくコミュニケーションができるポケベルが、おたがいを傷つけないためのメディアになっているということです。番組の中では次のようなナレーションが流されました。「さびしい。会いたい。でも、傷つくのがこわい。そんな若者たちにとって、ベル友は心のすき間を埋める新しい友です。」(岡田、一九九七より再引用)

 マスコミは最近、こうした若者の姿をとりあげることが多くなってきました。さびしいけれど傷つきたくない。だから、心をさらけださずに、うわべだけのコミュニケーションをする(例えばポケベルを介して)、という若者像です。これを仮に“さびしんぼう”の若者像と呼ぶことにしましょう。社会学や教育学・心理学などの学問分野でも、こうした若者の“さびしんぼう”化がしばしば問題として取りあげられています。しかし、この若者像は本当に的を射ているのでしょうか。若者はいつの時代もなかなか理解されないものです。いわゆるジェネレーション・ギャップというやつです。古代の象形文字を解読してみたら「今どきの若いやつは……」と書かれていた、という笑い話もあります(真偽のほどは定かではありませんが)。私は、この二~三十年に行われた若者調査のデータをいろいろ調べてみましたが、上のような若者像はどうやらこのジェネレーション・ギャップが生みだした錯覚のようで、とりたてて“さびしんぼう”の若者が増えた形跡は見当たりませんでした。まずは、それらの調査結果をいくつかかいつまんで紹介しておきましょう。

2 若者の“さびしんぼう”化というウソ

 総務庁青少年対策本部では、一九七〇年から五年ごとに『青少年の連帯感などに関する調査』を行っています。そのデータによると、「心をうちあけて話せる友人」がいないと答えた若者は、七〇年には二四%でしたが、九〇年にはわずか四%に減っています。他にNHKの中高生調査や青年意識調査などの結果をみても、友人や親友の数は最近までほぼ一貫して増加傾向にあります。これらのデータをみる限り、孤独な状況に置かれている若者が増えたとは思えません。むしろ逆の傾向が示されているのです。

 これに対して、友人や親友がいるかどうかという“状況”と、孤独感やさびしさを感じるかどうかという“感情”は別じゃないか、という反論があるかもしれません。心をうちあけて話せる友人はいるけれども、実はその「心をうちあけて」というレベルがかつてより浅いものに変わってきていて(例えば、自分の好きなタレントや趣味といった程度のレベルに)、その中で孤独感をつのらせている可能性も確かに考えられます。そこで、その点をみてみることにしましょう。

 総理府が毎年行っている『国民生活に関する世論調査』では、日常生活のなかで充実感を感じるときについて、いくつかの選択肢を設けてたずねています。その中から「友人や知人と会合・雑談しているとき」に充実感を感じると答えた二〇歳代の若者のデータをみてみると、七五年では二四%、九七年では四九%で、二五%も増えています。九二年に質問方式の変更があったので、本当は単純に比較することはできないのですが、しかし変更以前と以後に分けてみてみても、どちらの時期でもほぼ一貫してその数値は増加傾向にあります。先に紹介した青少年対策本部の調査でも、「生きがいを感じるとき」として「友人や仲間といるとき」をあげる若者の割合は、年々増加しています。つまり、友人関係に孤独感をつのらせるどころか、逆に充実感をおぼえる若者が増えているのです。

 したがって、友だちづきあいの面でさびしさを感じる若者が増えたというのは、およそ誤った主張だと言えるでしょう。そうした虚像を生みだしたの一つの原因は、先にも述べたように、いわゆるジェネレーション・ギャップというものによる錯覚です。橋元(一九九八)が調査データに基づいて指摘しているように、ひとは一般的に年齢が上がるほど深い友だちづきあいをするようになります。そうした上の年齢層の目からみれば、いつの時代にも、若者はうわべだけの友だちづきあいをしているように映ります(自分たちもかつてはそうであったことを忘れて)。そこから、うわべだけのつきあい→さびしい若者という誤ったイメージができあがったわけです。

3 「とか」弁のメンタリティ

 若者の“さびしんぼう”化というこの錯覚を、さらに強めることになったある日常的な社会現象があります。それは、「とか」や「みたいな」「って感じ」「っていうか」を多用する若者のことばづかいです。これらを、若者より年上の世代は、相手との人間関係から身をひき、そこで傷つくことを避けようとするメンタリティの表れと受けとめました。例えば、ある新入社員研修係は次のように語っています(九三年四月二二日の読売新聞朝刊の記事より)。

若者の「とか」弁に、今年も悩まされた。「コピーとか必要ですか?」「会議とかやるんですか?」。「みたいな」「というか」「だったりして」なども多い。いずれも、ものごとを断定せずにそれとなくはぐらかす表現。斜に構えて、相手に真正面から対することをよしとしない若者の心模様がかいま見える。……。「ビジネスではごまかしの言葉は通用しない」といっても、なかなか直らない。複雑な人間関係から逃げる根本が変わらないと直らないと、思っている。

 若者の間にこれらのあいまい表現が広まったのは九〇年代以降のことのようで、それまでの若者ことばの場合には日本語の乱れとして問題にされるものがほとんどでした。人間関係についてのメンタリティの面から問題にされた若者ことばは、これがおそらく初めてでしょう。これらのあいまい表現は確かに、人間関係の上で相手から一歩身をひいているような印象を与えます。そのことはまた、人間関係に臆病でうわべだけのつきあいに止めようとする“さびしんぼう”的なメンタリティを連想させるものではありますが(また、その連想に基づいて、これらの若者ことばは“さびしんぼう”化を証拠だてるものと受けとられていったわけですが)、しかし、人間関係で一歩距離を置くことと、うわべだけの臆病な人間関係に止めることとは、必ずしも直結するものではありません。本音をぶつけあう遠慮のいらない間柄だけれども、相手に寄りかからず互いを拘束しないクールな関係というのも考えられるわけですから。

 私は、若者のあいまい表現の背後には、むしろこうしたメンタリティ――密着した人間関係に拘束されることを好まず、いつでも手軽にON/OFFできる人間関係を好むようなメンタリティ――があるのではないか、と考えました。つまり、人間関係の“浅い-深い”ではなくて“軽い-重い”という面についてのメンタリティがむしろ関係しているのではないか、ということです。そこで、このことを検証するために、今年の四月、ある大学の学生二五二名(一八~二四歳)を対象に、若者ことばについてのアンケート調査を行ってみました。

 調べてみたのは、次のような四つの若者ことばです。「(風邪かと尋ねられて)っていうか、少し疲れてるだけ」「かなりやばいって感じ」「渋谷とか行って映画とか見ない?」「もうどうしようもない、みたいな」。まず、これら四つのあいまい表現による若者ことばをどれくらい使っているかを数値化します。次に、その使用頻度と、友だちづきあいについての質問項目との相関関係をいろいろ調べてみました。その分析結果ですが、友だちの数や友だちづきあいの“浅い-深い”とは、統計学的に意味のある相関はありませんでした。つまり、こうした若者のあいまいなことばづかいは、うわべだけの臆病な人づきあいを好む“さびしんぼう”的メンタリティからでてくるものではない、ということです。

 一方、友だちづきあいの“軽い-重い”とあいまい表現の使用頻度との間には、予想したとおり、統計学的に意味のある正の相関がみられました。これらのことばづかいをよくする若者ほど、軽い友だちづきあいを好むという傾向です。またこれは、若者ことば全般にあてはまる傾向ではなく、あいまい表現を用いた若者ことばだけにみられる傾向です。「[チョー]つまらない」など、特にあいまい表現を用いていない四つの若者ことばの使用頻度についても同じ分析をしてみましたが、友だちづきあいの“軽い-重い”との間に特に意味のある相関はみられなかったからです。

 したがって、九〇年代に入ってこうしたあいまい表現を用いた若者ことばが広まった背景には、“浅い”人間関係というよりむしろ“軽い”人間関係を好むメンタリティの強まりがあったのではないかと推測されるのです。

4 ケータイは友人関係の「リモコン」

 この調査の分析を進めるうちに、もう一つおもしろいことがわかりました。友だちづきあいの“軽い-重い”は、友だちに電話する頻度や携帯電話・PHSの所有率の面でも違いをもたらすのです。分析の結果、軽い友だちづきあいを好む者ほど、友だちによく電話をし、携帯電話やPHSをもっている割合が高い、という統計学的に意味のある傾向がみられました。これはどういうことなのでしょうか。

 軽い友人関係というのは、いつもべったり一緒にいるようなつきあい――つねに回路がONになっているようなつきあい――ではなく、気分や状況に応じてON/OFFが手軽に切り替えられるような友だちづきあいのことを意味しています(ちなみに、具体的にアンケートで質問したのは、「どこに何をしに遊びに行くかによって一緒に行く友だちを選ぶ」かどうか、ということです)。このことからすれば、軽い友人関係を好む人はON/OFFが簡単に切り替えられるようなコミュニケーション・スタイルを好むだろう、と考えられます。電話を介したコミュニケーションは、まさにこうしたスタイルにぴったりあてはまります。時間や場所に拘束されないケータイやPHSは、さらにうってつけです。気が向いたときに気が向いた場所でスイッチON。気が向いた相手に電話をかけ、おしゃべりに飽きたらケータイのスイッチをOFFにするだけ。面と向かった会話ではこうはいきません。相手のおしゃべりが止まらなくなって、話を打ち切る口実をみつけるのに苦労した経験はだれにでもあるでしょう。ケータイなら適当ないいわけをして、さっさと電源をOFFにしてしまえば、それでおしまいです。

 気分に応じて気軽にコミュニケーションの回路のON/OFFを切り替える。この様子は、リモコンによってテレビのチャンネルを気軽に切り替え、気が向いた番組をみる人々の姿を思い起こさせます。これと同じように、ケータイは若者にとって、まさに友人とのコミュニケーションのチャンネルを気軽に切り替えることのできる「リモコン」なのではないでしょうか。

 今、ケータイは高校生や大学生の間でも爆発的に普及しつつあります。仕事をする上で携帯電話が必要な社会人とは違って、学生にケータイを必要とするさしせまった理由があるとも思えませんし、月々に支払う料金も学生にとってはバカにならない額のはずです。それでも彼ら彼女らがケータイを欲しがるのは、それが友人関係を気軽にON/OFFするのに便利な「リモコン」装置だからなのかもしれません。

引用文献
  • 岡田朋之(一九九七)「ポケベル・ケータイの「やさしさ」」、富田英典ほか著『ポケベル・ケータイ主義』、ジャストシステム
  • 橋元良明(一九九八)「パーソナル・メディアとコミュニケーション行動」、竹内郁郎ほか編『メディア・コミュニケーション論』、北樹出版