寄稿「過激さ ウケる社会」

※以下は『北海道新聞』に掲載されたものです

「過激」さ ウケる社会
 細木数子、小泉劇場、2ちゃんねる…

辻 大介, 2006 『北海道新聞』22737号(1月23日号), 夕刊, 7面

 
 いつの頃からだろうか。歯に衣着せぬ、過激なほどの物言いが、マスコミで妙に人気を博するようになった。たとえば細木数子である。もともと占い師として著名ではあったが、数年前からテレビ出演も増え、最近ではむしろ、そのズケズケとした話しっぷりの方がよく知られているだろう。ブームは過ぎ去った感もあるが、今でも彼女の出演する番組は高視聴率を稼ぎ出すという。

 政治の世界に目を転じれば、小泉首相がいる。昨年の流行語大賞にもなった「小泉劇場」は、まさにそのパフォーマンスの過激さゆえに盛り上がったと言っていいだろう。「自民党をぶっこわす」という産声とともに誕生した首相は、郵政民営化のためならば「俺は死んでもいい、殺されてもいい」と国民に訴えかけた。それが実際に功を奏し、先の総選挙で大勝を収めたことは周知の通りだ。

 過激な発言は、インターネット上にもあふれている。中でも「2ちゃんねる」という匿名掲示板は有名だろう。そこでは、罵詈雑言や誹謗中傷としか思えない書き込みも、決してめずらしくない。露骨に嫌韓・嫌中の姿勢を示す――という以上に差別的な――言辞も目立つ。それにも関わらず、2ちゃんねるはネット上でも有数の人気サイトなのである。

 なぜこうした、時には度を超していると思えるほどの物言いが、ウケるようになったのだろうか。混迷した不透明な社会状況のなかで、確固たる価値観や先行きをズバリ示してくれる断言・直言が、私たちの心に響くようになったということなのだろうか。確かにそういう面もあるかもしれない。しかし、おそらくその見方は、事態の本質を捉え損ねている。

 先にふれた2ちゃんねるで、しばしば用いられる決まり文句に「ネタにマジレスかっこ悪い」というものがある。過激な書き込みであっても、それはおもしろがり、盛り上がるためのネタであって、それにマジメにレス(返答)することは不粋なのだ。つまり、そこでなされているのは、真剣なメッセージ内容のやりとりではなく、過激さという形式を楽しむある種の「ゲーム」「ドラマ」なのである。

 それはプロレスの楽しみ方にも似たところがある。プロレスをまったく知らない者から見れば、その試合は激しい暴力の応酬にしか思えまい。しかし、プロレスの観客たちは、それが本気のケンカではなく、暗黙のお約束ごとに基づいて演出されたゲーム・ドラマであることを知っている。だから、レスラーが流血したからといって、「闘うのをやめろ! 救急車を呼べ!」と真剣に叫ぶ者は、単なる愚か者でしかない。そこでは、過激な流血騒ぎもまた、ゲームを盛り上げるための演出であり、楽しむべきネタであるのだ。

 過激な物言いがウケる背後には、このようなゲーム的・ドラマ的な感覚があるのではないか。そのことを確かめるため、私は昨年一二月、講義に出ている学生一四二名に簡単なアンケート調査を行ってみた。ネット上で「過激な発言を見たとき」にどう感じるかという質問に、「おもしろい」と答えた者は二八%だったが(「不快」が八二%)、2ちゃんねるを読む者の場合は三九%に上った(読まない者では二三%)。2ちゃんねる利用者には、やはり過激発言をネタとしておもしろがることのできる者が多いということだ。

 さらに興味深いのは、小泉首相を好きか嫌いか、首相の靖国神社参拝に賛成か反対かという質問とも関連がみられたことだ。過激発言を「おもしろい」と感じる者では、小泉好感が四二%・参拝賛成が四一%であったのに対し、「不快」と感じる者では、いずれも一八%にすぎなかった。一方、政治への関心や参加意欲などで分析しても、小泉好感・参拝賛成の比率に、統計学的に意味のある差はみられなかった。このことは、小泉首相や靖国参拝が、その政治的内容ゆえにではなく、その形式――つねに物議を醸す過激さ――ゆえに支持されている可能性をうかがわせるものだ。

 限られた学生が対象の調査ではあるが、仮に、こうした傾向がより広くあてはまるものだとすれば、私たちの社会には、政治問題をもゲームやドラマのように処理する感覚が浸透しつつあることになる。しかし言うまでもなく、政治は、スイッチを切れば無関係でいられるゲームでもドラマでもない。それは私たちが否応なく関わらざるをえない「現実」なのだ。