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メタファは文字通りのことを意味する

―― 語用論の観点からメタファを考える
辻 大介, 2002 『日本認知言語学会論文集』第2巻, pp.276-279

1.言葉の意味と使用
2.メタファのコンテクスト依存性
3.メタファの解釈過程
4.メタファと会話の含み
5.メタファ研究の今後に向けて
  / 文献

 「メタファが意味しているのは、ことばがその最も文字通りの解釈において意味していることであって、それ以上のことは何も意味していない」。これは言語哲学者ドナルド・デイヴィドソンの主張である(Davidson [1984: p245])。

 一見、奇矯にも思えるこの主張を擁護すること──ただし言語哲学とは別の光を語用論の観点からあてることによって──が本稿の目的である。以下では、まず、ことばの意味/使用の区別を説明し、メタファが後者の領域に属すものであることを示す。そして、メタファの解釈過程においても会話の含みの場合と同様にことばの文字通りの意味が不可欠の役割を果たすことを論じた後、メタファ研究の今後の課題についてふれる。

§1.ことばの意味と使用

 つきなみな愛の告白「きみはぼくの太陽だ」を例にとろう。健全な言語感覚の聞き手であれば、話し手が自分のことを人間ではなく巨大な恒星だと勘違いしているとは思うまい。そういった文字通りのこととは何かしら別のこと(彼にとって自分がいかに重要か等々)を伝えるものとして受けとるはずだ。デイヴィドソンはこの健全な直感を否定するのだろうか。

 そうではない。彼が否定するのは、ひとがメタファから受けとるものをことばの意味 (meaning) の一種とみなすことである。彼は「ことばが何を意味しているかということと、ことばが何をするために使用されているかということとの区別」に依拠しつつ、「メタファはまったくもって使用 (use) の領域に属す」のだと論じる(ibid.: p247)。

 デイヴィドソンの用語系でいう、ことばの(文字通りの)“意味”とは、そのことばが用いられた状況や文脈──コンテクスト──にかかわらず、つねに一定に保たれるべき(1)ものである。

一方、ことばが何をするために“使用”されているかはコンテクストとのかかわりにおいて決定される。たとえば「カゼで熱があるんです」ということばは、場合によっては、外出しろという命令を拒否するために用いられうるし、また場合によっては、授業を休ませてくれと依頼するために用いられうるだろう。

 いずれの場合も「カゼで熱がある」ということば自体は、文字通り〈カゼで熱がある〉ことを意味しており、それ以上のことは何も意味していない。そしてまた、それぞれの使用のコンテクストから離れて、そのことば自体が命令の拒否や依頼といった意味をあらかじめどこかに隠しもっていると考えるのは、無益な混乱でしかあるまい。しかし、従来のメタファ研究はまさにこれと同じ混乱に強く彩られてきた。デイヴィドソンは、そのことを批判するのである。

§2.メタファのコンテクスト依存性

 メタファがことばの使用の領域──語用論の研究領域──に属するものであること、つまりメタファがコンテクストに依存するものであることを具体例にそって確認していこう。そのコンテクスト依存性は、成立と効果の二点にわたる。

<1A>
「太郎の入場料は半額でいいのよね?」
「あいつはこどもだからな」
<1B>
「次郎くん、会社やめたんだって?」
「あいつはこどもだからな」

いずれの返答も同じことばでなされているが、<1A>は文字通りに、<1B>はメタファとして受けとられよう。あることばがメタファとして成り立つかどうかは、コンテクストによる。これが第一点である。

<2A>
「三郎さんって、頭いいの?」
「あいつはコンピュータだよ」
<2B>
「三郎さんって、涙もろいの?」
「あいつはコンピュータだよ」

 この場合は、いずれの返答もメタファではあるが、<2A>は知性にかかわる何ごとかを、<2B>は情緒性にかかわる何ごとかを印象づけるものとして受けとられよう。あることばがメタファとしてどのような効果をあげるかは、コンテクストによって変わる。これが第二点である。

 これと同じコンテクスト依存性は、会話の含み (conversational implicature) (Grice [1989])にもみられる。体調をたずねられ「カゼで熱がある」と返答したときには、それは文字通りに受けとられようし、外出命令への応答であったならば、命令の拒否を含みとするだろう。発せられたことばが何かしらの含みをもつかどうかはコンテクストによる。また、含みがあるとしてそれがどのようなものか(外出命令の拒否、授業欠席の依頼など)も、コンテクストによって変わる。

 ここから示唆されるのは、メタファが会話の含みと同じ言語技巧ではないかということだ。

§3.メタファの解釈過程

 会話の含みをくみとる認知過程は、おおよそのところ、ことばの文字通りの意味を足がかりに推論をめぐらす過程として説明できる。外出命令に対して太郎が「カゼで熱がある」と返答した場合を例にとろう。まず、そのことばから〈太郎はカゼで熱がある〉という文字通りの意味がひきだされる。ひとは一般に〈カゼで熱がある者は外出を拒む〉ことを知っていよう。この背景的知識と先の文字通りの意味をもとにした推論によって〈太郎は外出を拒む〉という含みが導き出されることになるわけだ。

 メタファ解釈の認知過程もまた、基本的には、この会話の含みと同様にみなしうる。従来の多くのメタファ研究のように、メタファに特殊な解釈過程を想定する必要はないのである。

 <2A>の「あいつはコンピュータだ」を例にとろう。まず〈三郎はコンピュータである〉という文字通りの意味がひきだされる。コンピュータに関する背景的知識には〈コンピュータは記憶に優れる〉〈コンピュータは計算が正確で速い〉等々が存するだろう。これらの知識と文字通りの意味から推論によって帰結するのは、〈三郎は記憶に優れる〉〈三郎は計算が正確で速い〉等々である。これらの帰結が、<2A>のメタファの効果にあたる。

さて、この過程で〈コンピュータは電子機器である〉といった背景的知識が推論に組みいれられるならば〈三郎は電子機器である〉が帰結することになるが、聞き手が〈三郎は電子機器ではない〉と十分に信じていれば──厳密にいうと、〈三郎は電子機器ではない〉ことが話し手との相互信念として十分に成り立っていれば──それに矛盾する帰結は棄却されることになろう。また、コンテクストによってどの背景的知識がどの程度活性化されるかに違いが生じ、それが<2A>と<2B>における効果の違いをもたらす。

 メタファの解釈過程は大略このように粗描することができる(2)(より詳しくは辻[1995])。

§4.メタファと会話の含み

 メタファと会話の含みにおいて、解釈の過程は同型である。ただ、その結果(の一部)が異なるだけなのだ。そのことをもう少していねいに説明しておきたい。

<3>
「山田さんは気むずかしい人なの?」
「彼は哲学者だからな」

 この返答は、場合に応じて、メタファであるとも受けとられうるし、メタファでない(会話の含み)とも受けとられうるだろう。しかしいずれの場合にせよ、発話・言語行為の主眼[ポイント]──その返答においてことばが何をするために使用されているか──は同じである(つまり、質問に肯定的に答えるために用いられている)。

 ことばの文字通りの意味〈山田は哲学者である〉と背景的知識〈哲学者は気むずかしい〉から、推論によって発話の主眼にかかわる帰結〈山田は気むずかしい〉にたどりついた後、しかるべき根拠によって山田が哲学者であることが信じうるものとみなされるならば(たとえばそれ以前の会話から山田が哲学を講じる大学教授であることが聞き手に知られている場合など)、そのことばの文字通りに意味するところも聞き手に受けいれられることになる、すなわち<3>の発話の解釈過程は会話の含みを結果することになるだろう。

 一方、たとえば山田が哲学とは縁のない人物であることが予め知られている場合には、ことばの文字通りに意味するところは棄却されることになり、発話の解釈過程はメタファを結果することになるだろう。この場合であっても、聞き手はことばの文字通りに意味するところをいったんは推論に組みこまなくてはならない。でなくては──メタファにおいてもことばは文字通りのことを意味するのでなければ──推論そのものが始まらず、いかなる帰結も導出できないからだ。

 <3>の返答がメタファ/会話の含みのいずれに解釈されるとしても、その解釈過程は、同じ出発点(=文字通りの意味)から始まり、同じ道程をたどって、同じゴール(=発話の主眼)にたどりつく(3)。異なるのは、出発点となった推論の足場がゴールにたどりついた後に、取り外されるか/留め置かれるかである。メタファにおいてことばの文字通りの意味は、いわば発話の解釈を組みあげるための仮の足場として使用されるのである。

§5.メタファ研究の今後に向けて

 メタファをこのようにことばの使用という観点から見直すことは、今後のメタファ研究にいくつかの大きな課題を与えるもののように思われる。最後にそのうちの一つに軽くふれておこう。

 それは、メタファ解釈における推論(または認知)過程の問題である。本稿ではここまで、それを便宜的に命題計算的な過程として記述してきた。また、語用論の主流においても、発話解釈における推論過程は命題計算的に取り扱われることが多い(Sperber and Wilson[1995]など)。しかし、はたしてメタファの解釈過程は命題計算的に扱いきれるものなのだろうか。

 野球のコーチが不調の選手に「バットじゃなくて腰でボールを打ち返すんだ」とアドバイスしたとしよう。このメタファによって選手がスランプを克服したとしたら、それはバッティングの身体動作を変える効果をもったことになる。このような効果はそもそも命題の形式で記述しえまい。「メタファが思いつかせたり呼びおこしたりするものは、何らかの真実や事実の認識とは限らない」のである(Davidson [1984: p263] )。したがって、その効果に至るまでの過程を命題計算として記述することにも無理があるだろう。そこに大きくかかわっているのはむしろ、身体動作についての非命題的知識 ── knowing that ならぬ knowing how(Ryle [1949] )──であるにちがいない。

 こうした非命題的な身体知のかかわるメタファが必ずしも例外的なものではないことは、レイコフとジョンソンの研究が示すところでもある。彼らは、"I'm feeling up/down" "My spirits rose/sank" などの方向性のメタファ表現の背後には、HAPPY IS UP; SAD IS DOWN というメタファ概念が存すると説き、それを支えているのが一定の「身体的基盤 (physical basis)」であることを示唆している(Lakoff and Johnson[1980:p15])。「言語表現としてのメタファが可能であるのは、まさに、ひとの概念体系にメタファが存するがゆえである」(ibid.:p6)という彼らの説明に関しては、デイヴィドソンの批判するように「ある錠剤がなぜひとを眠らせるのかを、それに催眠力があるからだと言って説明するようなもの」(Davidson[1984:p247])だが、メタファと身体の結びつきに関する指摘自体はきわめて重要に思える。

 レイコフとジョンソンのいう「メタファ概念」は、knowing that の形で記述されてはいるものの、身体知をうまく利用するための言語使用のノウハウ (knowing how to use words) として考え直しうるだろう。身体知と言語使用をつなぐこのインターフェイス領域を研究するのが認知言語学だとすれば、それはまた、身体知を研究する認知心理学(アフォーダンス理論(4)など)と言語使用を研究する語用論をつなぐ接点でもありえよう。二一世紀のメタファ研究には、これら三分野の活発な相互交流を期待したい。

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