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広告の誘惑と言語表現・非言語表現

辻 大介, 2001 『日本語学』20巻2号(2月号), pp.52-61, 明治書院

1.広告における言語・非言語表現の多彩さ
2.広告における言語・非言語表現の比重
3.広告の不思議
4.商品を表現しない広告
5.広告表現と消費の舞台演出
   / 文献

1 広告における言語・非言語表現の多彩さ

 広告には、実にさまざまな表現技法が駆使され、凝縮されている。例えば、広告コピーに用いられるレトリックの多彩さは、文学作品に比べても決してひけをとるまい。

 言語表現ばかりでなく、非言語的な面でも同じことがいえる。テレビCMにはドラマや映画以上の密度で映像テクニックが詰めこまれている。広告のビジュアルデザインに用いられる素材と技法の多種多様さは美術作品のそれに優るとも劣らない。CMソングにはそのときどきの音楽の流行が鏡のように映しだされているし、また、非言語表現に含めてよいものかどうかはわからないが、広告に登場するタレントや俳優をみても古今東西のスターが総出演といったありさまだ。

 より細かい点では、CMにおけるナレーションやセリフの声色・口調などの言語随伴的 (para-linguistic) な要素を挙げてもよかろう。そのバリエーションの豊富さは、おそらく私たちがふだん耳にする音声言語の中でも群を抜いている。視覚言語(文字)の面でも同様であり、グラフィック広告はありとあらゆる書体の博覧会だとすらいえよう。

 これ以上は挙げていくときりがないのでやめておくが、しかし、なぜ広告にはこれほどまでに多彩な言語・非言語表現が用いられるのだろうか。それには、広告というコミュニケーションの性格に由来する三つの理由がある。

 一つは、広告それ自体への注目をひきつけなくてはならないからである。広告は、人々にとって基本的には余計でじゃまな存在だ。あなたがテレビを見るのは番組を見たいからであり、新聞を読むのは記事を読みたいからだろう。広告を見たいから、テレビをつける、新聞を買うという人はほとんどいまい。それゆえ、なにかしら注目をひきつけるくふうをしなければ、簡単に見逃され、読み飛ばされてしまうのだ。

 第二に、いま述べたこととも関係するが、広告メッセージへの関心をひきつけなければならないということがある。テレビ番組や映画を没頭して見たり、新聞・雑誌の記事や小説などを集中して読んだりすることはあっても、広告に没頭したり集中したりすることはほとんどあるまい。同じセールストークであっても、店頭販売員なら少なくともある程度は商品に関心をもってやってきた人を相手にすることができる。広告の場合はそれすら期待できない。W.ベンヤミンのことばを借りていうなら、広告が相手にしなくてはならないのは、きわめて移り気な「気散じする遊歩者[フラヌール]」たちなのだ(北田 二〇〇〇)。表現をくふうしなければ、ろくろく見ても読んでももらえない。それが、広告が広告であるがゆえの宿命なのである。

 第三に、人々の広告商品の購買を促さなければならないという、広告の大命題がある。テレビのドラマやバラエティ番組であれば、ただおもしろければそれでよい。しかし広告はそれだけでは困る。いかに広告そのものが人々にウケようとも、当の商品が売れなければ何にもならないのだ。魅力に乏しい、目新しいところのない商品であっても、広告はそれを買ってもらうように人々にはたらきかけなければならない。商品について魅力ある広告内容を伝えることができないならば、その伝え方、つまり広告表現の魅力で勝負するしかあるまい。

 裏をかえせば、広告がこれほどまでに言語・非言語表現の妍を競っているということは、魅力に乏しい商品がいかに多いかの証拠ともいえよう。私たちの社会はそんな商品を大量消費することで成り立っており、広告はその消費社会の重要な原動力なのだ。

2 広告における言語・非言語表現の比重

 広告はこのように言語表現と非言語表現ともにさまざまな技法が駆使される場であるわけだが、さて、いずれの表現力の方が大きいのだろうか。これはよくある疑問の一つなのだが、表現力の量というものを定義することからしてきわめて難しく、それを精確に測定する方法論が確立されているわけでもない。

 そこで試みに、私の担当する講義の受講生二六八名に簡単なアンケートを配り、「テレビCMの良し悪しを一〇点満点で評価するとしたら、次の五つの要素にどう配点するか」をたずねてみた。その要素とは「ことば(キャッチコピーなど)」「ビジュアル(映像・デザインなど)」「オーディオ(音楽・効果音など)」「出演者(タレント・俳優など)」「全体的なふんいき・構成・演出」である。

 その結果、各要素の平均配点は図1のようになった。あくまでこれは参考程度のデータにすぎないが、この結果によれば、広告における言語表現のアピール力は相対的に小さなものにとどまり、映像や音楽、出演者などの非言語表現(の総体)の方がかなり大きな力をもっているといえそうだ。

図1 テレビCM評価の平均配点

図1

 対面的なコミュニケーションの場合も、情報伝達に言語の占める割合は三割程度だとか一割以下だといわれ(Birdwhistell 1970, Mehrabian 1968)、残りは非言語的な要素によって伝えられているいう試算があることを考えるなら、広告コミュニケーションでも事情は同じと考えられるかもしれない。が、広告にはまた対面コミュニケーションとは違った事情もからんでいる。その事情とは、先に述べた広告に多彩な表現技法が用いられる理由と関係している。

 広告がその目的を達成するには、(1)自らの存在への注目をひきつけ→(2)広告メッセージへの関心をひきつけ→(3)広告商品への購買へと誘う、という順にそれぞれのステップをクリアしてかなくてはならない。前のステップが成し遂げられなければ、後のステップが成し遂げられることはありえない。その意味では、この(1)(2)(3)の順に重要性が高いわけだ。

 しかし言語表現は、その最も重要な(1)のステップで寄与できる部分がほとんどない。ことばが理解され解釈される以前の問題だからだ。例えば、あなたが話し始めたのに、相手がその声に気づかなかったときはどうするか。声を大きくしたり、手を大きく挙げたりすることで、つまり非言語的な要素にうったえることで、自分に注意を向けさせようとするだろう。広告でもそれは同じことであり、しかも自分に注意をひけるかどうかが広告にとってはいわば生死に関わる大問題なのである。だとすれば、広告において非言語表現の比重が高くなるのは理の当然ともいえるだろう。

 また、(2)(3)のステップでも非言語表現はやはり重要な役割をになう。これも例えば、あなたが自分の話す内容に興味をもってもらいたいとき、あるいは話をして相手にある行動をとるように促さなければならないとき、どうするかを考えてみればよい。どういうふうに何を言うか、ことばをくふうするだけでなく、話が単調に聞こえないように語り口に抑揚をつけ、表情を誇張し、身ぶり手ぶりを交え、非言語的な手法を総動員して相手にはたらきかけるだろう。同じことを言ったとしても、それによって相手の興味のもちようや動かされ方はかなり変わってくる。この点もやはり広告でも同じことなのだ。

 ただし、特に(3)のステップでは、非言語表現より言語表現のになう役割の方が大きいのではないか、と考えるむきもあろう。ことばだけでも相手の説得に成功することはありうるが、ことばなしの説得はおよそ考えにくい。それゆえ、このステップでは役割の上では言語が主、非言語が従に位置づけられるのではないか、と。

 確かに、広告を商品を買うように説得する過程とみなすなら、そう考えるのが適当だろう。それ自体は魅力に乏しい商品を買ってもらうには、広告はたとえだましてでも消費者を説得するしかないように思えるし、研究者にも広告を説得の過程とみなす者は多い。しかし、それは広告というコミュニケーションの本質を見誤っている。少なくとも、現代日本社会における広告コミュニケーションのありようを説得と考えるのは、多分にミスリーディングである。広告は商品を買うように説得するのではなく、誘惑するのだ。その誘惑のプロセスにおいて、言語表現と非言語表現はどちらが主、どちらが従というわけでもなく、一体となって私たちにはたらきかけている。

 ありとあらゆる言語・非言語表現を駆使して私たちを誘惑する広告。その正体はどのようなものなのか。それは、広告というコミュニケーションのもつ不思議さを通してのみ、おぼろげに浮かび上がってくる。

3 広告の不思議

 しかしながら、広告のもつ不思議さにはっきりと気づく人は、研究者ですらほとんどいない。私のみた限りでは、川上(一九九七)がくちコミの効果との対比で、次のようにふれているのが唯一の例外である。

 一方、……テレビのコマーシャルで身近なタレントに「こういう商品を待っていました。とてもいい使い心地よ。あなたも使ってみて」と呼びかけられても誰も本当のこととは受け取りません(それでも広告の効果があるから不思議です)。広告の送り手には、商品を買わせようとする意図があると私たちが思っているからです。

 これほど単純なことに、なぜ川上と私以外の研究者は気づかないのか、それ自体がまた不思議なことだが、その理由は最後にふれることにしよう。

 広告が商品を買わせようとして一面的なことしか伝えないことは、だれしもが知っている。にも関わらず、広告につられて商品を買ってしまうことがある。ふつう、私たちは相手の言うことがだまし文句だと予めわかっているのに、だまされてしまうことはまずありえまい。広告は不思議にもそれに似たことを実際に成し遂げてしまうのだ。

 もちろん、広告の伝えることすべてがウソだというわけではない。事実を偽ったり誇大に表現することは法的にも規制されている。麦以外の原料も使っているビールを「麦一〇〇%」と広告することは今の日本ではまずありえない。広告は一面的な事実しか伝えないかもしれないが、事実を偽ることまではしないし、その点でだましことばとは違う。

 しかし、広告が本当に伝えたいのは「麦一〇〇%」という商品事実ではない。「だから、このビールはうまい」という商品価値を伝えたいのであり、前者は後者と結びつかなければ何の意味もないのである。この価値を伝えるという面では、広告はきわめてうさんくさいものになる。例えば、次の二つのすすめ文句を比べてみてほしい。

  1. ちょっと君にアドバイスしておこう。このビールは麦一〇〇%だからうまいよ。買うなら、そっちよりこっちだね。
  2. ちょっと君に広告しておこう。このビールは麦一〇〇%だからうまいよ。買うなら、そっちよりこっちだね。

 助言か広告かの違いだけで、どちらも内容は同じことを言っている。だが、(1)に比べると(2)はいかにも眉唾ものだ。せいぜいのところ話半分にしか聞かれまい。実際、先の学生アンケートで「広告の言うことは何割くらい信用できると思うか」を記入させてみたところ、平均値は五割弱であった。

 相手に信用してもらえなければ、いかに美辞麗句を弄しようとも、説得は成功しえない。予め相手の信用を失っている広告は、それゆえに説得に成功することのありえないコミュニケーションなのである。

 いや、それでも話半分は信用されているわけだから、そこのところで説得効果(=広告効果)をあげているのではないか。こういう反論もあろう。ならば、図2をみてほしい。これは、先ほどの「何割信用できるか」の回答によって、広告に対する信用度が高い・中くらい・低いグループに分け、各グループにおける「広告をみて、その商品が欲しくなったり、実際に買ったりすることがあるか」という設問への回答状況を示したものだ。

図2 広告をみて商品が欲しくなったこと・買ったこと

図2

 これをみると、広告への信用度が高いか低いかで、それほど購買欲求喚起の状況に差がないことがわかるだろう。やや関連がありそうにみえなくもないが、統計学的には差があるといえる水準には達しておらず(カイ二乗検定では有意確率p=.23)、信用度と購買欲求喚起度の順位相関係数もρ=.12と低い値にとどまった(これもp<.05の有意水準には達しない)。

 説得の場合、このように信用と効果に関係がないことは考えにくい。より信用できる人の話ほど説得されやすいのは、私たちが日常的によく経験するところでもあるし、説得研究でも古くから確かめられている事実である(Hovland and Weiss 1951)。つまり、図2が示しているのは、広告が説得によって効果をあげるのではないということ、少なくとも説得が広告効果に寄与する部分はきわめて小さいということなのである。

4 商品を表現しない広告

 広告が説得(のみ)によって効果をあげるわけではないことを示す事実がもう一つある。それは広告にまつわるもう一つの不思議──実は先の不思議とコインの表裏なのだが──と関わっている。それは、商品の特性や魅力についてほとんど何も説明しないのに、なぜかしら効果をあげる広告の存在だ。

 例えば、昨年秋に流されたある缶コーヒーのCM。そこでは、何人もの人気お笑いタレントが出演し、とある会社でそれぞれが仕事に奮闘するシーンが演じられる。ある者は不慣れなパソコンで書類づくりに残業し、ある者は得意先に土下座し、またある者は…といったぐあいに、カットが細かくつながれていく。各カットでは、それぞれが坂本九の往年のヒット曲『明日があるさ』を口ずさんでおり、みんなで「明日[あした]があるさ、明日[あす]がある、若いボクには夢がある、いつかきっと、いつかきっと、わかってくれるだろう~♪」と歌いつないでいくという構成だ。この歌詞以外、ことばとしては、最後に「ジョージアで行きましょう」というナレーションと文字が入るだけである。商品特性などには何もふれられない。映像面でも商品が登場するのは、最後にタレントが缶コーヒーを飲むシーンとそこにかぶさる商品カットくらいで、その缶コーヒーのおいしさを表現するような映像はまったくないと言ってよい。

 商品についてほとんど何も語らないこの広告は、しかしきちんと効果をあげている。というのは、私自身がこの広告につられてその缶コーヒーを買ってしまったからだ。仕事に追われていたある日のこと、気分転換に外を歩いていた私は、鼻歌を口ずさみながら何気なくある自販機のボタンを押し、缶コーヒーを一本買った。買って気づいたときにはすでに遅し。私はまんまと広告にのせられてしまっていた。そのとき口ずさんでいたのは『明日があるさ』、私の手に握られていたのはそれまでほとんど買ったことのない『ジョージア』だったのである。

 このとき私は、広告に「説得」されてそれを買うに至ったのだろうか。そうではあるまい。広告を見て私が少しでもその缶コーヒーはおいしそうだなどと思っていたなら、「説得」されたというのもわかる。しかし、どう思い返してみても、そんなふうに感じたおぼえはない。そもそもこの広告は、おいしさ(商品特性)について何も語っていない・表現していないのだから。私に生じたのは、むしろ「広告にその缶コーヒーを買うことへと[いざな]われてしまった」というべき事態である。

 広告の誘惑。それはどのような機制によって作用しているのだろうか。

 それは潜在意識に訴えるサブリミナルな誘惑なのだとかいうオカルトめいた議論は、このさい無視するとして(注)、ひとむかし前のマーケティング研究者であれば、付加価値という概念をもちだして、次のように答えることだろう。

 「広告のなかには、商品を表現してその価値を伝えるのではなく、商品とは無関係な自己表現を行って広告自体の魅力を訴えるものがあります。いわば、みずからが価値を生みだすわけですね。その価値を商品に付加することで、つまり、広告みずからが商品の付加価値となることによって、人々を消費へと誘うわけですよ」云々。

 この論にしたがえば、広告さえおもしろければ、それがそのまま商品の付加価値となり、どんな商品でも売れることになろう。しかし、そんなことはない。私は広告代理店に数年ほど勤めていたことがあるが、いかにおもしろく、人々の話題になった広告であっても、商品の売り上げを伸ばせないケースをいくつも目のあたりにした。それが広告表現の難しさであり、付加価値と言い放って片がつくほど広告の現実は甘くはないのである。

5 広告表現と消費の舞台演出

 ならば、どのようにして広告は人々を消費へと誘うのか。人々をみずからの演技 (Spiel) ──L.ウィトゲンシュタインにならって言語ゲーム (Sprachspiel) と言い換えてもよい──に引きずりこむことによって、というのが私の答えである(辻 一九九八)。

 広告という言語行為には、ひとつ興味深い性格がある。みずからが広告であることを言語化してしまうと効果が損なわれる、という性格だ。たとえば「広告として言うんだけど」などと明言すると、「このビールはおいしいよ」というメッセージはとたんに眉唾に感じられるようになり、ひいては広告効果を損なうことになる(三節でみたとおり、助言などの場合にはこのようなことはない)。

 こうした性格は皮肉[アイロニー]にもある。「喩えて言うなら、きみはぼくの太陽だ」と言っても隠喩[メタファー]の効果に変わりはないが、「皮肉って言うなら、きみは賢いね」と言うと皮肉らしさを失ってしまい、皮肉としての効果を損なってしまう。P.グライスの示唆するところによれば、これは擬装(pretence)的な言語行為の特徴である(Grice 1989)。何かの擬装[ふり]をして発せられたことばにはこの性格があてはまる。たとえばハムレットを演じる、つまりハムレットの擬装[ふり]をする役者が「これはセリフとして言うのだが、生きるべきか死ぬべきか」などと言うのはおよそ奇妙であり、セリフとしての効果を損なうだろう(辻 一九九七)。

 広告もまた、おそらくはある種の演技的なコミュニケーションなのである。広告は言語・非言語表現を駆使して、魅力的な舞台を演出するのだ。ことばだけでも魅力あるドラマが組み立てられるように、またことばなしでも魅力あるパントマイム劇が成り立つように、そこでは言語表現・非言語表現のどちらが主、どちらが従ということもなく、多くの場合は一体となって演出力を発揮する。しかし、それはただおもしろい舞台であればよいわけではない。人々がそこに参加したくなるような誘惑に満ちた舞台を演出しなければならないのである。

 仕事に疲れていた私は、缶コーヒーのCMの演出していたその舞台につい引きこまれてしまったのだ。つらい仕事にめげず、「若いボクには夢がある」と明るく歌いながら明日に向かっている若者たちがいる舞台に。そのために、一二〇円を払って缶コーヒーという舞台への参加チケットを、ふと気づくと買ってしまっていたというわけだ。たとえ想像の上だけであれ、そのことで私は望んでいた舞台に加わることができた。いや、そのはずだったのだ、自分が広告にのせられたことに気づきさえしなければ。

 その意味で、三節で述べたような広告の不思議さにはっきり気づき、それを言い立てることは、いちいち「これは広告ですが」と明言する広告のように、広告の演出する舞台をしらけさせることなのである。だれもが広告の不思議さを肌でぼんやりとは感じ取っていよう。しかし、それをはっきり意識にのぼせることは、広告の演出する夢の舞台のまどろみから醒めることを意味するのだ。そんな無粋をあえてする研究者がほとんどいなかったのは、それゆえ当然のことなのかもしれない。

 広告は魅惑的な舞台を演出し、人々をそこに誘う。人々はそこに参加するために商品を消費する。たとえ想像の上での参加にすぎないにしても、そこに何の問題があろう。広告の演出している舞台はそもそも虚構なのだから。こうして、消費のゲームは今日も続けられ、人々は夢の舞台にまどろみ続ける。虚構の時代(大澤 一九九六)の消費社会がまどろむ夢。広告はそれをさまざまな言語・非言語表現の撚り糸でもって紡ぎだしてみせているのである。

注)
ある種のサブリミナル効果についてはその存在が科学的に実証されている。下條 (一九九六) などを参照。ただし、広告効果をサブリミナル効果に還元しつくすことはできない。はっきり意識にのぼる広告表現上の違いによって効果が変わってくることもまた明らかだからだ。この点は辻 (一九九八) でもう少し詳しく論じてある。
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