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「マスメディア」としてのインターネット
―― インターネット利用者調査からの一考察

辻 大介, 1997 『マス・コミュニケーション研究』50号, pp.168-181

はじめに
一 「マスメディア」としてインターネットを考察する意義
二 インターネット受容の現状
三 インターネット利用の諸相とその利用実態
四 マスメディアとインターネット : その連続性と相違性
  / 文献 / Abstract

はじめに

 そもそもは学術利用を目的とした研究者間のネットワークだったインターネットの商業利用が解禁されたのは一九九〇年のことだ。日本でも九四年に商用のIP接続サービスが開始され、以来順調に一般生活者に利用者層を拡げていった。それとともに「インターネット」ということばは急速に巷間に流布していく。例えば読売・朝日の大手二紙のデータベースを検索してみると、「インターネット」が初めて記事の見出しに現れるのは九四年だが、翌九五年には読売で一六六件・朝日で二七八件の見出しに用いられ、九六年には六月末までの半年間で既に各二九九件・三四九件に達している。

 だが、このことばの流行は実際の内容の理解を伴うものではなかった。九五年末に実施されたある街頭調査では、知名率こそ八割を超えたが、内容もわかるという回答は三割強に止まり、その中にも内容を曲解していたりパソコン通信と混同した回答が多く含まれていたという結果がでている(アクロス編集室[1996:p.94])。

 このようなことばの先行は、研究者の議論にも強く感じられるところだ。インターネットの内容を誤解したものは少ないにせよ、コミュニケーション‐メディアとしての現状や可能性が論じられる際にさえ、まずテクノロジカルな特性を表す専門用語が並べられ、その特性面での既存メディアとの違いをもとに人々や社会への影響が考察されるという、ある種の技術決定論が展開されることが多い。

 確かにテクノロジカルな特性もメディアの重要な一側面ではある。が、新しいメディアというものが真空中に出現するわけではなく、既存の社会的コンテクストの中でその受容者と相互作用しながら定着していくものである限り、受容する側の実態把握を欠いた論はやはり偏頗と言わざるをえまい。

 そこで本稿では、今回我々がインターネット利用者に対して行った調査(1)の結果をてがかりに、日本におけるインターネット受容の現状と可能性について改めて検討する。また特に、敢えてインターネットを「マスメディア」の延長線上に置いて考察していくことにしたい。

一 「マスメディア」としてインターネットを考察する意義

 マスメディアという観点からのインターネットへの研究アプローチは、Morris and Ogan [1996]などを除けばほとんど見当たらない。むしろコミュニケーションの”一方向性“対”双方向性“、”ツリー型“対”ネットワーク型“といったように既存マスメディアとの対比に強調が置かれるのが通例だろう。では、インターネットの可能性[ポテンシャル]を敢えて「マスメディア」という考察軸に沿って検討しようとする意義はどこにあるのか。

 一つの単純な理由は、それが大規模な一般利用者[マス‐オーディエンス]を獲得しつつあることだ。正確な利用者統計はないが、九五年のニールセン社の調査では北米で既に二四〇〇万人の利用者が存在し(日本インターネット協会[1996:p.9])、またよく用いられる推計方式(2)によると全世界での利用者は九六年七月で約一億三千万と見積もられる。日本の場合、この推計方式によると約五〇〇万人、これは多すぎるとしても二〇〇万人以上に上るだろう。未利用者における利用意向も高く、九五年末のある街頭調査では四四%がすぐにでも使ってみたいと答えており(アクロス編集室[1996:p.96])、九六年七月の都内高校生調査でも五六%が使ってみたいと回答している(水野・辻[1996])。したがって、日本でも利用者数が順調に推移し、今世紀中にも一〇〇〇万人を超えるマスを獲得する可能性は十分にある。利用者規模においてインターネットは既存マスメディアに匹敵する影響力を潜在させているのである。

 第二の理由は、メディア‐テクノロジーとして革新的な点であるインターネットの可塑性の高さが、逆説的に旧来のマスメディアの延長線上での受容をもたらしうることだ。インターネットはマルチメディアの典型とされる通り、映像・音声・文字などマスメディアの扱う情報形式を基本的にすべて処理・伝達できる可塑性の高さを備えている。つまり、既存マスメディアはチャネルをインターネットに換えてそのまま収まりうるわけだ(実際あらゆる分野のメディア産業が続々とインターネットに参入しつつある)。確かにインターネットは、これまで専ら「受け手」の立場におかれてきた人々の情報発信を容易にし、既存マスメディアに乏しかったコミュニケーションの双方向性を可能にする。しかし、人々の側に情報発信性や双方向性への欲求が薄ければ、それは単なる可能性にとどまらざるをえない。GII(Global Information Infrastructure)の配備が完成した時に訪れるのは、『テレビの消える日』(Guilder[1992=1993])などではなく(3)、多くの人々がそれを通して相変わらずテレビ番組を視聴し続けている日かもしれないのである。

 第三の理由は、大多数の人々において情報発信・コミュニケーションの双方向性に対する欲求がどこまであるかという、まさにその点にある。情報発信には手間ひまがかかる。また、コミュニケーションが双方向的であるとは、相手に拘束されるということでもある(好きなときにスイッチを切ってページを閉じて、放り出してしまえば終わりというわけにはいかない)。情報発信によって生計を立てられる人は今後も少数だろうから、大多数は必然的に余暇時間をあてざるをえまいが、仕事や家事の疲れをいやす時間を「能動的」に過ごす動機がはたしてどれだけあるものだろうか。NHK放送文化研究所の九五年生活時間調査によれば、自由時間の大半は「受け身」のテレビ視聴にあてられているのである。また、インターネット以前に双方向性が盛んに強調されたメディアであるパソコン通信においても、電子会議室にメッセージを書き込む者は1割程度にすぎず、書かれたメッセージを読むだけの者が大部分だった(川上 [1990: p.133])。インターネットが一般に注目を集めるきっかけとなったWWWのホームページを作成する場合、電子会議室への書き込みよりさらに格段の手間を要するのである。加えて言うなら、それだけ手間をかけてホームページを作ったとしても、資本や表現ノウハウに乏しい個人の場合、アピール力のある情報をもたない・制作できないことがほとんどだ。アメリカでは家族のホームページを見せられることが「つまらないこと」の代名詞にさえなっているという(西垣 [1996: p.157])。

 これらのことを勘案するなら、結果的にインターネットの利用が情報の「一方向的」な受信に偏り、またアピール力のある特定の発信源=「送り手」からの受信に集中する可能性も、十分考えられるだろう。インターネットは、新たなマスメディア状況をこそ出現させるものかもしれないのである。

二 インターネット受容の現状

 この節では、インターネット受容の現状を、今回の利用者調査の結果をもとにやや大局的な観点から把握する。

 調査の概要は次の通りである。対象は、ASAHIネットのインターネット接続契約者約6万人から無作為に抽出した一五〇〇名(法人を除く)。調査期間は一九九六年七月三~一五日、有効回答は五三三票であった。なお、地方プロバイダーとの比較のため、大分を拠点とするNewCOARAの契約者に対しても同時に調査を行ったが、単純集計レベルではほとんどの項目でかなり近似した数値が得られ、安定した結果が示されている(結果の詳細は橋元他[1996]を参照)。

 まず今回の調査対象者の位置づけだが、今後インターネットが順調に受容されていくとすれば、言うまでもなく「初期採用者」あるいは「イノベーター」にあたる。図1は、調査対象者が初めてインターネット接続を申し込んだ時期(現在利用しているプロバイダーに限らない)から、九四年七月~九六年六月の二年間の接続者数の推移をグラフにしたものだが、ここにはRogers [1982=1990: p.17]のいうS字型普及曲線の「離陸期」にあたる接続者数の加速度的な伸びがみてとれよう(最終月に伸びが鈍っているのは、調査対象を抽出した契約者名簿がその月半ばのものであるため)。実際、調査対象者にはイノベーター的心理傾向が強くみられ、飽戸[1987: p.301]を参考にその心理尺度として設問した「友人が何か変わったものをもっているとすぐ欲しくなるほうだ」への肯定回答は、〈かなりあてはまる〉一六%、〈ややあてはまる〉三〇%で計四六%。これは九三年都民調査の肯定回答率一二%(橋元他[1994: p.173])に比べるとかなりの高率である。

図1

図1 インターネット接続者数の推移

 また、現在のインターネット受容が特殊なマニア層あるいは「オタク」層の手によるものではないと思われる点についても改めて確認しておきたい。利用を始めたきっかけとして最も多かったのは、「テレビや雑誌などでみて興味をもったから」であり(複数回答)、過半数の五九%に上る。このことは、現在の受容者の多くが一般の人々と同じくマスコミのインターネット報道に大きく影響されていることを窺わせる。先の図1には、見出しに「インターネット」が用いられた大手二紙の記事数の累積変化を点線で示してあるが、それが接続者数の推移ときれいに重なることも一つの傍証になろう。

 次に、彼ら彼女らのインターネット利用状況の概略をみていこう。現在インターネット利用の核と目されているのは、WWW (World Wide Web)と電子メールである。これらの利用頻度とその他の機能の利用頻度を、インターネット全体の利用頻度とあわせて、図2に示す。インターネットを毎日利用する者は六割を超えており、かなり活発な利用がなされていると言えよう。WWW・電子メールを毎日利用する者も半数近く、それ以外の機能の利用頻度に比べると、やはりこれらが利用の中心になっていることがわかる。

図2

図2 インターネットの利用頻度

 こういった活発な利用によって大きな影響を受けたのが、睡眠時間とテレビの視聴時間だ。睡眠時間に関しては、実に七割近くの者がインターネットを使い始めてから減ったと答えている。逆に言えばそれだけインターネットへの関与度が高いということになろう。また、テレビをみる時間が減ったという回答も五割に上っており、ここに脱マスメディア傾向を読み込むこともできるが、テレビから得ていた利用満足をインターネットから得るようになっただけで、利用の実態は依然「マスメディア」的であるかもしれない。

 図3は、その利用満足の状況を表したものだ。〈満足〉の割合が最も高かったのは「f.自分の好きなこと(趣味など)に関する情報を手に入れる」という情報受信型の利用であり、六割に達する。同じく受信型の「e.自分の仕事や研究などに必要な情報を手に入れる」も5割を超えている。一方、情報発信型の利用では「d.仕事や生活の上で必要な連絡をする」が五割を上回っているが、より自発的な「b.自分の知らない人に向けて情報を発信する」は三割に満たない。また、相互的コミュニケーション志向の「c.いろいろな人とコミュニケーションする」もとりあえず四割弱に止まっている。

図3

図3 インターネットの利用満足

 小括すると、インターネットの利用満足として大きいのは、趣味に応じた情報や仕事で必要な情報を得るという”専門雑誌“的な利用によるものか、用件連絡という”電話・郵便“的な利用によるものであるということだ。それに対し、インターネットのメディア特性を活かした形での情報発信・相互的コミュニケーションによる利用満足は小さいのである。

 が、これだけでは森を見て木を見ずに終わる可能性がある。全般的な利用満足の傾向は以上の通りだとしても、インターネットへの関与度の高い者は、独自のメディア特性を活かした形の利用から満足を得ているかもしれない。彼ら彼女らをインターネットに強く惹きつけている部分こそが、今後の受容においては大きなウエイトを占めるとも考えられるだろう。そこでさらに、インターネットの利用によって睡眠時間が〈かなり減った〉と回答した者をそれだけインターネットに強く惹きつけられている高関与群とみなし、それ以外の者と各項目の利用満足を比較してみた(表1)。ほとんどの項目で高関与群の方が〈満足〉と回答した割合が高くなっているのは当然予想されることとして、特に差が激しいのは「a.インターネット自体を娯楽として楽しむ」と「f.自分の好きなことに関する情報を手に入れる」である(χ2検定ではこの二項目のみp<0.05の有意差がみられた)。つまり、高関与群をインターネットに惹きつけているのもやはり、情報享受型が増幅された形の利用満足なのであり、情報発信・相互的コミュニケーション型のそれではないのである。

表1 インターネット高関与群と低関与群の利用満足の比較
〈満足〉と回答した割合(%) 高関与群 低関与群  
a) インターネット自体を娯楽として楽しむ 66.2 > 52.4 *
b) 自分の知らない人に向けて発信する 26.8 > 23.4  
c) いろいろな人とコミュニケーションする 45.1 > 37.8  
d) 仕事や生活の上で必要な連絡をする 47.9 < 53.9  
e) 自分の仕事や研究などに必要な情報を手に入れる 52.1 > 50.9  
f) 自分の好きなことに関する情報を手に入れる 73.2 < 58.5 *
g) 生活に必要な情報を手に入れる 39.4 > 33.0  
h) 社会の動きに関する情報を手に入れる 35.2 > 29.9  
*を付した項目は統計学的に有意な差のあるもの(p<0.05)
三 インターネット利用の諸相とその利用実態

 以下では、インターネットの利用行動を便宜的に情報享受型と情報発信型(相互的コミュニケーション型も含める)の二類型を中心に整理し、それぞれの利用実態と可能性[ポテンシャル]を調査結果から把握していく。

 情報享受型のインターネット利用の代表格はWWWである。その特徴は、一つの環境≒画面で文字と画像が(さらには音声・動画なども)統合的に扱えることだ。WWWの利用者はホームページと呼ばれる電子的ページを閲覧[ブラウズ]し、気が向けばリンクのはられた他のホームページへと次々に移動[ネット・サーフィン]していくという行動をとることになる。注意しておきたいのは、ネット‐サーフィンによって獲得されるように思われる「能動性」が、基本的に情報・メッセージの選択過程あるいは解釈過程における能動性、つまり受信者=「受け手」としての能動性であって、情報発信(あるいは相互的コミュニケーション)面での能動性ではないことである(4)。この「受け手」としての能動性は、程度の差はあるにせよ基本的には既存マスメディアの利用でもみられるものだ。「受け手」にとってWWWが既存マスメディアと異なる点はむしろ、これまで大きな情報発信力をもたなかった人々のホームページが数多く存在することにあろう。しかしながら、実際に閲覧されているホームページがマスコミ産業や企業組織のものに集中していれば、既存マスメディア的な性格が依然として強いことになる。

 WWWにおいて情報発信面での能動性が促されるモメントとしては、次の二つが考えられる。一つは、ホームページの閲覧をきっかけに、その保有者に電子メールを送るといった発信行動がなされる場合である(これは以下で利用実態をみる際には電子メールの利用行動に含めて考えることができるだろう)。もう一つは、自らホームページを制作して情報発信を行う場合だ(なお、本稿で「WWWの利用」と述べる場合は一貫してホームページの閲覧のことを指し、ホームページを制作して情報発信を行うことは含めないこととする)。

 ここでまた注意しておきたいのは、WWWは受信者/発信者を極化させる性格がやはり強く、相互的コミュニケーションのもつある種のモメントが希薄であるということだ(嘉田・大西[1996: p.236])。仮に受信者からホームページの保有者にあててメッセージが送られたとしても、パソコン通信の電子会議室と違ってそのやりとりは第三者には目にできない。また、受信者同士でコミュニケーションが行われる可能性も少ない。コミュニケーションの参与者に拡がりをもつ契機に乏しいのである。

 さて次に、情報発信型の利用形態としては、上記のWWWのホームページ制作によるものと電子メール、それに加えてニュースグループ(ネットニュース)の利用が挙げられよう。ニュースグループとはパソコン通信の電子会議室にあたるものであり、”バーチャル・コミュニティ“の典型例としてもちだされることも多い(例えばRheingold [1993=1995])。

 情報発信型の利用行動にはさらに、二つの利用類型を導入することができる。一つは、会社の同僚や学校の友人等々のいわゆる「電子空間」[(サイバースペース]外で出会った相手=既存の対人ネットワークとのコミュニケーションに利用される場合だ。これは、電話や郵便など旧来の通信メディアを代替する形の利用にあたる。もう一つは、電子空間において対人ネットワークを新たに創出し維持するためのコミュニケーションに利用される場合である。これにはニュースグループの他に、電子メールによるメーリングリストへの参加なども含まれるだろう。

 以上に述べたことを整理して示すと、図4のようになる。この中で、従来のメディア状況を変える大きな契機は、第一に、電子空間上で対人ネットワークが築かれ、そこで情報発信・相互的コミュニケーションがなされるという部分(①)、次に、これまで不特定多数への情報発信手段をもちにくかった一般個人がホームページを制作し、それが多くの者に閲覧されていくという部分(②)に認められるだろう。

図4

図4 インターネット利用の諸形態とその性格

 では、これらの部分がどの程度のポテンシャルをもっているかを、調査結果を通してみていこう。

 まずは①の部分から。電子メールでやりとりをする特定の相手がいて、それが電子空間(インターネットの他、パソコン通信も含む)で知り合った相手であると答えた者は一五%にすぎなかった。電子メールが電子空間で形成された対人関係に向けて用いられている割合はかなり小さく、既存通信メディアの代替的利用が主流であると言えるだろう。次にニュースグループの利用だが、「ネットニュースを読む」という回答が三四%であったのに対し「ネットニュースに投稿する」という回答は五%にすぎなかった。つまり、”バーチャル・コミュニティ“への参加率は三人に一人程度、しかもその大半は受信一方の潜在的な参加であるということだ。ちなみに、八九年に行われたパソコン通信加入者調査(普及段階からすれば本調査と同じ初期にあたり、調査方法も同じ無作為抽出郵送自記式)から、機能的に等価な電子会議室の利用状況と比べてみると、「読む」にあたる回答が六六%、「投稿する」にあたる回答が三七%(川上他 [1993: p.75] 参照)と大きな差がみられる。したがってパソコン通信とは決定的に異なり、インターネットにおける①の部分のポテンシャルは相対的に小さいと言えるだろう。

 次に、②の部分の検討に移る。WWW上にホームページを保有している者は一七%と少数であったが、一つ注目されるのは、保有意向をもつ者が五二%に上ったことである。今後ホームページの制作・保有はかなり活発になるかもしれない。が、それも一般個人のホームページがあまり閲覧されなければ空回りに終わるだろう。そこでもう一方の、ホームページを閲覧する情報受信型利用の状況をみてみよう。図5は「比較的よくアクセスするホームページ」としてあげられた割合を各項目ごとに示したものだ(複数回答方式)。「B.コンピューター関連企業のホームページ」が最も多いのは現在の受容層の関心分野をよく反映しているとして、次に多いのはやはり「A.マスコミ関連企業のホームページ」である。「I.知らない一般人のホームページ」もそれに次ぐ比率の高さを示してはいるが、この点の解釈には若干慎重を要する。図6は、よくアクセスする先として企業の保有するホームページA~Dをあげて、一般個人のホームページIをあげなかった者(=既存マスメディアにおいてもある程度以上の情報発信力をもつ相手先をWWW上でも依然として選好している者)が、全利用者中に占める割合を表したものだ。その構成比は六割を超えており、一般個人のホームページと併用している者を含めると八五%にまで上る。ここから、一般個人の保有するホームページの利用が付帯的な位置にあることがわかるだろう。

図5

図5 よくアクセスするホームページ

図6

図6 利用パターン別の利用者構成比

 そこで、先の図4における②の部分について概括すれば、ホームページの保有意向がかなり高い点、そして、よくアクセスするホームページの上位にとりあえず一般個人のものが含まれている点に、相応のポテンシャルを認めることができる。しかし、現状ではやはり既存マスメディア的な性格の強い利用が主流であると言えるだろう。

四 マスメディアとインターネット:その連続性と相違性

 かつてブレヒトはラジオに次のような可能性をみた。

「ラジオはひとつの分配装置からひとつのコミュニケーション装置に転化することができる。…もしもラジオが…聴取者に聞かせるだけでなく、語らせることもでき、かれを孤立させるのではなく、参加させることができるとしたら、だ。」 (Brecht [1932=1973: p.297])

現在、インターネットにこれと同じ可能性をより鮮明にみてとる者も多い。しかし、前節・前々節を通してみてきた通り、インターネット利用の実情は、既存メディアの代替としての利用が主流であり、なおかつ「受け手」としての利用満足が大きな部分を占めるものであった。

 無論だからといって、参加型メディアとしてのインターネットの受容可能性を等閑視できるわけではないが、ラジオの普及期に次の事実があったことを看過すべきではないだろう。

「黎明期のラジオは…ワイヤレス(無線)と呼ばれていたが、このワイヤレスは音声の受信機能と同時に送信機能も備わった、まさにインタラクティブなメディアであった。二〇世紀初頭のアメリカには、この…特性を活かして、国際的な短波ネットワークをはりめぐらし〔た〕…若者たちが…ワイヤレス・クラブといったグループを自主的に形成しており、アメリカだけではなく、さまざまな国に現れたクラブのメンバーと連携を取り合っていたのである。……ところが一九二〇年代の大衆消費社会の到来と相まって、インタラクティブな『ワイヤレス』は、あえて一方向的な受信専用機である『ラジオ』へとその様態を転換してしまったのである。アマチュア無線家の若者たちは、そのことに大いに失望していく。一方で、操作が簡単になったメディアを手に入れること、それから聴こえてくるさまざまなエンターテイメントに、大衆は熱狂的な関心を示すようになる。」 (水越 [1996: p.193])

同じことがテレビにも生じたことを水越は指摘し、「インタラクティビティは、テレビを支える放送技術にもとから欠けていたのではなくて、テレビを支える社会的要因群によってそぎ落とされてしまったのだとみるべき」ではないかと言う。

 一部の集団から一般の人々へと利用を拡げつつある現在のインターネットもまた、そのテレビと同じ「社会的要因群」に自らの支えを移しつつあるととりあえずは考えておくべきではないだろうか。だとすれば、その上で改めて、インターネットと既存マスメディアを、位相の違うメディアとしてではなく、連続線上において相違点をもつメディアとして検討し直す作業が必要とされよう。以下、この点に関する若干の予備的考察を行って、本稿を閉じることにしたい。

 まず、「受け手」にとってインターネットは、享受できる情報の幅が広いという雑誌メディア的な特性と、アクセスが容易であるという放送メディア的な特性を、併せもつことがあげられるだろう。この点は、二節の図3でみた通り、一般性・社会性の高い情報を得るという大衆紙誌型の利用満足よりむしろ、各個人の興味関心に応じた情報を得るという専門誌型の利用満足を高めるものだ。こういった、個人の選好に応じた豊富な情報の享受から得られる利用満足の高さは、あるいは将来的には、藤田 [1996: p.176] の危惧するような徹底したメディア依存を「受け手」にもたらすものかもしれない。いずれにせよ、その明暗両面を見極めていくことが重要だろうが、その際には従来のマス‐コミュニケーション研究とはやや異なった角度からのアプローチの必要性が増すように思われる。伝統的なマスコミ研究において「受け手への影響」と言われる場合に想定されていたのは、マスメディアの流す情報(メッセージ)の内容が多くの人々に影響を与えるということだ。インターネットという「マスメディア」の場合には、むしろ、多くの人々がそれぞれの選好に応じて別々の情報を享受するという利用形式をとること、そのことによってもたらされる影響──例えば受け手の「断片化(5)」──をより重点視していく必要があるだろう。この点において、インターネットはテレビの多チャンネル化と類比的な影響を受け手にもたらすように思える。Webster [1989] は多チャンネル化について次のように指摘している(東京大学社会情報研究所 [1993: p.265] の引用より)。

「総体としての受け手がこれまでよりも多くのチャンネルに広く配分されるとはいっても、個々の視聴者が同じように広い範囲のチャンネルに接触しているというわけではない。…テレビのチャンネルが多様化し、編成が複雑化してくると、人びとは、いちいち全部の番組に目配りをするわずらわしさから逃れるためということもあろうが、他人とはちがった自分独自のメディア環境をそれぞれ構築するようになる。」

その結果、それぞれ異なったメディア環境をもつ受け手が編成される(受け手が断片化する)というわけだ。ロジックとしてはインターネットについても同じ議論が成立するだろう。この点についてこれ以上追究する余裕はないが、今後の研究課題たりうる点の一つであるように思われる。

 最後に、インターネットのネットワーク型メディアとしての性格について再考しておきたい。インターネットを参加型メディアという観点から考えるときに、まず想定される対人ネットワークは、参与者間で相互にコミュニケーションがなされている形のものだ。これを「顕在的なネットワーク」とするなら、もう一つの概念型として「潜在的なネットワーク」を考えることができるのではないだろうか。

 平野・中野 [1975: p.102]は、ラジオの深夜放送を聴くかつての若者たちに、次のような「ネットワーク」をみた。

「深夜放送族はそれぞれの閉空間=密室の中にある種の情報だけを入れる。その情報を媒介して放送局と結合する。同じような無数の密室が同時に放送局と結びつく。…放送局を中心に無数の密室がネットワークを形成している…。…主観的には〈連帯〉しないが、何かを共有しながら一つの宇宙を形成している。」

この島宇宙の構成員たちは、顕在的なコミュニケーションを行ってはいない。だが、メディアを通して「共振」[ヴァイブレート]しているのだと平野らは言う。彼らの行論は措くとして、そこにはコミュニケーションの潜在的な経路が開かれているとみることもできるだろう。

 このような形の潜在的なコミュニケーション経路[チャネル]を顕在化させることは、インターネットでは既存マスメディアに比べてはるかに容易だ。例えば現在でも、ホームページに記載されているアドレスに電子メールを送ると保有者の主宰するメーリングリストに参加できるようなシステムが数多く存在する。そのような「参加」も大半は前節でみたように受信一方の潜在的参加に止まるものかもしれないが、ローカルラジオのような試み(6)が今後インターネット上で盛んになり、徐々にメディアの性格を変えていく可能性もありうるだろう。

 以上の他にも、論ずべき点は多々残されているが、そろそろ紙幅も尽きた。本稿のように、インターネットによるメディア変容を従来の連続線上にあるものとして捉える見方は、愚直で新鮮味に乏しいものかもしれない。だが、華やかな言説を纏わされたインターネットが果たして「裸の王様」でないかどうかを見極めるためには、それもまた必要な作業ではないだろうか。筆者としては今後とも愚直にインターネットのメディアとしての可能性を測定し続けていくことにしたい。

Abstract

   The Internet is rapidly getting popular also in Japan. In this paper, I report some results of our survey on the Internet users, and examine its potentials as mass medium. Optimistic idealists estimate highly its interactivity in communication, and think that many people is getting to use the Internet as the medium to participate 'virtual community.' Contrary to their expectation, our survey result shows that only 5% of users participate 'virtual community' actively and large part of users are passive audience of the WWW.

Daisuke TSUJI, 1997
Potentials of the Internet as a "Mass Medium"
Journal of Mass Communication Studies, No.50, pp.168-181

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