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友だちがいないと見られることの不安



辻 大 介


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2009 『月刊少年育成』54巻1号(大阪少年補導協会),pp.26-31

 ある家裁調査官は、ノンフィクションライター小林道雄の取材に答えて、次のように語っている(小林道雄「感受性の未熟さが非行を招く」『世界』二〇〇一年一月号、五一頁より)

「最近の子どもたちの周囲の目に対する敏感さ、と言っても同年齢集団の目に対する敏感さなんですが、それはちょっと異常なものがあります。たとえば、一人で昼ご飯を食べていたとすると、あの子はかわいそうな子だとか友だちがいない子だとか、そういうふうに見られるんですね。そして、それがすごくつらい。だから、誰でもいいから仲間がいるほうがいいとなります。私は少年係になって十三年になりますが、かつての子どもはそれほどまわりの目を気にしていなかったと思います。何より感じる違いはそのことですね」

 非行少年、犯罪少年に限らず、私が日ごろ接する大学生からも似たような話を聞いたことがある。昼休みに大学の食堂で一人なんて、まわりから友だちのいない人に見られそうで耐えられない、ケータイでだれかつかまえて絶対にいっしょに食べる、と。
 これは必ずしも、一人でいる寂しさや孤独感に耐えられないということではない。まわりにピアグループ(同輩集団)のいない、たとえば自宅や街中であれば一人で食事をするのも平気だ、と言う。一人でいるのが怖いというよりむしろ、友人のいない/できない一人ぼっちと見られること、そのまなざしが怖いのだ。
 その背景として考えられるのは、私たちの社会における価値観の変化である。NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査によれば、生活目標として「身近な人たちと、なごやかな毎日を送る」ことを望む回答が、近年になるほど増加している(一九七三年は三一%→二〇〇三年は四一%)。つまり、身のまわりの親しい人間関係を重視する傾向が高まっているのであり、それに呼応するように、たとえば内閣府の青少年調査などでも、友人のいない者の割合が減り、友人数も増加傾向にある。
 物質的な豊かさという目標が広く社会に共有されていた高度経済成長期が、はるか過去のものとなった現在、人びとの意識はむしろ精神的な充足を求めて、身近な人間関係へと向かうようになった。そうした価値観の変化のなかで、若い世代は自らの親しい友人関係に向けられる視線を、より強く意識するようになったのではないか。かつての世代が、自らの経済状況に向けられるまなざしを気にかけ、貧乏に見られることを恐れたように。
 この点に関して、私が二〇〇八年一一月におこなったアンケート調査の結果を紹介しておこう(対象はgooリサーチの登録モニターで二〇〜四四歳の男女、全回答数一〇七三人)。そこでは、「まわりから友だちがいないように見られるのは耐えられない」か、そして「一人で食事したり部屋にいたりするのは耐えられない」かを訊ねている。図は、これらの質問に「あてはまる」または「ややあてはまる」と答えた比率を、年齢別にグラフにしたものだ。
 これをみると、どの年齢層でも「一人でいる」ことより、「友だちがいないように見られる」ことを耐えがたく感じている割合が高い。先に述べたように、一人でいること自体よりも、そこに向けられるまなざしのプレッシャーのほうが大きいのである。また、そのプレッシャーを感じている割合も、やはり若い年齢層ほど高い。ちなみに、ほぼ同時期にアメリカでおこなった調査でも同様の傾向が認められており、若者ほど「友だちがいないように見られるのは耐えられない」のは、日本に特殊な傾向というよりも、先進国の成熟社会に共通した特徴であるのかもしれない。

 もちろん、このデータだけでは、若者とはいつの時代もそういうものだった――つまり昔も今と変わりなく視線のプレッシャーを感じていた――という可能性も残る。しかし、親しい関係をより重視する時代になってきたことを示す先のデータともに考え合わせるなら、やはり今のほうが人間関係に敏感になっており、「友だちがいない」と見られることへの恐れも強くなっているとみてよいだろう。
 そのことは、若者たちの行動や意識に何をもたらすものなのだろうか。冒頭で引用した家裁調査官のことばを受けて、ライターの小林道雄は次のような懸念を表明している(前掲論文、五一〜二頁より)

 話によれば今の中高生は、登校するときも仲間同士で待ち合わせて行き、昼食も一緒に摂り、帰るときも一緒に帰るという。それはとくに女子に強いらしいが、最近は男子も同じで、一人でいるつらさから不登校になったり、非行グループに入ったりするケースもよくあるようなのだ。…(中略)…一人でいたくない、仲間外れにされたくないという意識がそこまで強いとすれば、仲間が言うことに対して自分は違うと思うということはなかなか言えなくなるのではないか。…(中略)…その仲間が万引きをやっていて自分が誘われた場合、悪いこととは知っていてもそれを咎めたり拒否すれば仲間から外されてしまう。

 このような懸念が、一部、あたっていることは、私のおこなった調査データの分析結果からも裏付けが得られる。必ずしも若年層のみに限った傾向ではないが、「友だちがいないように見られるのは耐えられない」ことは、「仲間外れになるのが怖い」ことに強く関連している。その度合いは、単に「一人でいるのは耐えられない」ことがもつ関連度よりもさらに高い。また、友人と意見が食い違ったときに「納得いくまで議論する」より「相手に話を合わせる」傾向も認められる。(ちなみに、これらもまたアメリカ調査でも共通してみられる関連傾向である。)友だちがいないことを、いわば「罪悪」「烙印」とまなざす視線のプレッシャーは、仲間外れを恐れさせ、付和雷同をもたらすものと言えよう。
 しかし、そのようなプレッシャーへの感受性は、必ずしも非行のような問題行動につながるばかりではない。むしろ好ましい人間関係を広げる可能性とも結びついていることを強調しておきたい。データをさらに分析してみると、「友だちがいないように見られるのは耐えられない」者は、ボランティア活動により積極的で、実際に参加したことのある率も高い。他者への信頼も相対的に高く、たとえば募金活動などにもよく応じる傾向にある。スポーツ系や文化系、地域活動の団体・グループなどへの参加も活発である。
 言うまでもないことだが、どんな物事にも良い面と悪い面があるものだ。親しい関係を重視する価値観とそこから来る視線(のプレッシャー)、それ自体は一概に良いとも悪いとも言えない。重要なのは、こうした価値観や社会状況を否定するのではなく、むしろそれを前提としたうえで、好ましくない面のほうが大きくなることを防ぐ方策を考えることだろう。
 そのためには何が考えられるか。まず思いつくのは、「みんなと仲よく」的な協調性ばかりを重視することをやめ、一人でいてもいいこと、一人でいられることの価値を、大人が子どもに伝え、教育していくことだろう。しかし、口先で言うだけでは、それが効果を発揮するとは思えない。一人ぼっちの孤独に耐えよと言い聞かせれば、耐えられるようになるほど、多くの人間は強くはあるまい。人間が一人でいることに耐えるには、何かしらの拠り所が必要だ。
 かつての時代なら、一生懸命勉強して、あるいは働いて豊かな生活を手に入れるという目標がその拠り所になったかもしれない。しかし今では、それが拠り所となるほどの大きな価値観ではなくなった。身近な人間関係こそがそれに取って代わったのであり、そのことが状況を難しいものにしているのである。
 問題はむしろ、自らの拠り所となる人間関係が狭い集団のなかに閉ざされてしまうことにある。今の学校では、学級のなかで友だちができないと、生活の大半を一人ぼっちで過ごすことを強いられてしまう。学級の外、学校の外への人間関係の広がりが乏しい。そうした閉鎖空間においては、友人がいないとみなされること自体が、友人にするにふさわしくないことの理由になってしまう。そのために、視線への、仲間外れへの恐怖が生じる。そして小学校から高校にいたるまでのあいだに、子どもたちは多かれ少なかれその恐怖を身にしみこませていく。
 このようなとき、ある集団・関係のなかでの孤独や孤立を耐える拠り所となり、力となるのは、自分を認めてくれる別の集団・関係があることだろう。それは、大人たちと入り交じった地域活動の場であるかもしれないし、お年寄りに対するボランティア活動の場であるかもしれない。同輩集団以外にも多様な関係を広くとり結ぶことのできるよう、学級や学校を開いていくこと。また学校だけの問題・責任に帰さずに、ひとりひとりの大人が、家庭が、社会が、そのような環境を整えていくこと。私たちの取り組むべき喫緊の課題は、そこにあるのではないか。