'02/12/9 MON

『広告都市・東京』を読む

北田暁大 著/廣済堂出版(2002年)刊

 あまりに惜しい『本』だ。北田一流のいつもながらに刺激的な優れた「論考」ではあるのだが/であるがゆえに。それは、「メッセージ」が『メディア』たりきれていないという意味において、そうなのだ。

 本書はまず、映画『トゥルーマン・ショー』を引き、その物語世界の構造とそこにおける広告の位置を分析することから始める(1章)。この映画は、周知のように、生まれたときから生活のすべてがテレビ中継されているトゥルーマンという人物の物語である。彼の住むシーヘヴンは巨大なスタジオセットであり、彼以外の住人はすべて役者だが、本人だけがそのことを知らない。トゥルーマンにシーヘヴン(彼の生活世界)が「虚構」であること、つまりその外部に「現実」世界が存在していることを気づかせるきっかけの一つが、広告である。たとえば、彼の妻は深刻な話の最中にも、突然「新製品のこの『モココア』を飲んでみない?ニカラグアの大地でとれた天然のカカオ豆を使ってて最高の味よ」と彼に話しかけて(その実はテレビ視聴者に向けての広告を始めて)しまう。外部から遮断されたシーヘヴンの内部に進入する唯一の外部。それが現実世界の資本の論理たる広告であったのだ。近代社会における広告の本質は、こうした「資本の論理(外部)と日常的な意味世界(内部)の媒介」にある(p.15)。
 このような見取り図のもとに、2章では〈80年代〉の社会システム──それはパルコ‐渋谷のような広告=都市をもたらした──の構造と動態が、シーヘヴンになぞらえられつつ浮き彫りにされる。広告=都市(「内部」)は、三つの外部の隠蔽によって成り立つという。すなわち、1)資本、2)超越的(外在的)視点からの批判、3)非記号的な〈私〉の隠蔽である。このあたりの資料と議論のさばき方は、いつもながら見事で説得的だ。それ以上におもしろいのは、〈80年代〉→ポスト〈80年代〉への変容を、パノプティコン的不安に彩られた社会空間からその位相反転形たる接続的不安(「見られているかもしれない」ではなく「見られていないかもしれない」不安)への移行としてとらえた3章の議論である。ここでの議論の展開は、もはや単なる広告論(および都市論)の枠に収まりきらないふくらみをみせている。また、ポスト〈80年代〉の社会の動きをはっきりつかみかねている今の日本の社会(学者)にとっても、いくつかの明確な示唆と刺激的な論点を与えるものだろうと思う。

 本書で論じられている内容それ自体に、私が異論や批判を加えられるところはない。むしろ最大の賛辞を送りたい。しかし、私がひっかかったのは、おそらく誰も気にとめないであろう例えば次のようなさらりとした記述のしかたである。

 電通の業界誌『アドバタイジング』一九八〇年三月号では、「盛り場コミュニケーション」という特集が組まれている。…(略)…。重要なのは、八〇年代の冒頭の都市に、『アドバタイジング』という読者層のかぎられた広告業界誌が、都市という空間的なメディアを取り上げたということの社会学的意味である。……。実際、この『アドバタイジング』誌は八〇年代を通じて幾度となく都市空間に関係する特集を組み、広告と都市空間のありうべき関係を模索し続けていくこととなる。八〇年代半ば以降に訪れたいわゆる東京論ブームにさいしては、「東京空間の修辞学」(八九年六月)、「世界都市・東京を考える」(八九年一一月)、「エンターテイメントとしての商空間」(八九年一二月)といった特集を組み、……また同誌は、八一年の「神戸ポートピア」の成功に始まり、九〇年の「国際花と緑の博覧会」の壮絶な失敗をもって集結する万博・地方博ブームにも並々ならぬ関心を寄せており、「ノックスビル国際エネルギー博覧会」(八二年八月)、「祭り+x=博覧会のxを解く」(八二年九月)、「生活の科学を考える─つくば博まであと二年」(八三年六月)といった特集記事を編んでいる。とりわけ、八〇年代のど真ん中(八五年)に行われたつくば博開催中は、グラビア記事「科学万博グラフィティ」を連載するほどの力の入れようで、当時のアドマンたちの空間志向がうかがい知れて興味深い。
(pp.52-5)

 さて、八〇年代の一連の博覧会が、電通をはじめとする広告代理店によって仕掛けられたイベントであることは、業界に少しでも通じている者であれば誰もが知る事実である。「仕掛けられた」が大仰であれば「中心的な役割をはたした」と言い換えてもよい。つくば博などは電通丸抱えの博覧会と言ってもいいくらいだ。東京論ブームも、博覧会ブームほどではないにせよ、広告代理店による「仕掛け」がはたらている。引用中にもあるように、『アドバタイジング』というのは電通の発行する雑誌であり、『ブレーン』や『宣伝会議』のような第三者的な広告業界誌というより、電通の広報誌(広告誌)としての役割を積極的に担っている。つまり、それはアドマンの関心や志向を単にコンスタティブに記述するのではなく、むしろそれをパフォーマティブに遂行する(まさに広告する!)ものであるわけだ。

 こうした一連の事情を、北田が知らないわけはない(少なくとも「知る」の精神分析学的な意味あいにおいては)。にもかかわらず、この箇所にその点への言及はない。あくまで淡々とコンスタティブな事実(出来事)の記述がなされるだけであり、そのパフォーマティヴィティ(行為性)は看過されている。
 むろん、それがアドマンの志向をコンスタティブに表象するものだろうが、パフォーマティブに構築するものだろうが、そこから当時の広告の動向が読みとれることに変わりはなく、本書の議論の妥当性に影響するものではない。また、私は本書のあら探しをして、見落としがあることを喜々としてあげつらいたいわけではない。
 問題は、北田ほどの優れた論者がなぜかくもあっさりと、この点──世界に浸潤し遍在する広告のパフォーマティヴィティ──をあえて見過ごし、事実を表象するコンスタティブな言説資料をコンスタティブに記述するかのような文体でもって通り過ぎていくのか、ということだ。精神分析学によれば答えは一つ、ひとは自らの最大の欲望を抑圧し、あたかも欲望が存在しないかのようにふるまう(それをあらわにする対象を見落とす)のである。

 私が言いたいのはこういうことだ。現代社会において、広告を論じる者は、多かれ少なかれ、実際の広告の作動する回路(パフォーマティヴィティ)に否応なくコミットすることになってしまう。広告の外部(メタ言説の位置)に端的に立つことは不可能である。むろん、近代の文化表象制度の一つである学問システムに担保されて、それに距離を置くことはできる。しかし、メタレベルをオブジェクトレベルに回帰させることで作動する近代資本主義社会においては少なくとも、その距離は相対的なものにすぎない。裏を返せば、学問とはその距離が相対的なものであることを隠蔽し、距離を絶対化し、研究対象を外部化することによって成り立つシステムであると言える(社会学が近代的学問の一つとしては落ち着きが悪いのもそのためだ)。
 北田はすぐれて学問的な人である。その学問的欲望に突き動かされて、広告との距離を絶対化した論述スタイルに陥ってしまったのではあるまいか(それを回避しようとする超自我のうごきも読みとれなくはないものの)。そのため、『アドバタイジング』誌が帯びる広告のパフォーマティヴィティを、ひいては自らの著した言説が広告(資本)の作動に多かれ少なかれコミットするものであることを抑圧してしまったのではないか。学術書という体裁(文化表象)が「定価1400円+税」の“商品”でもあることを抑圧するように。

 『トゥルーマン・ショー』という映画は、映画の(外部の)観客と、映画内部のテレビ番組『トゥルーマン・ショー』の視聴者を重ね合わせることで、外部と内部をショートさせるものであった。そうした映画の外部‐内部のショートサーキットと、(映画内部の)広告によるテレビ番組の外部‐内部のショートサーキット。これらを重ね合わせた二重の入れ子構造(二重にねじれたクラインの壺)こそが、近代社会の広告の見取り図にふさわしいと私は思う。しかし、本書の記述は、あくまで映画の観客としての視点から、つまり映画の外部から淡々となされる。そして、観察者と観察対象の距離が保たれたまま本書は閉じられてしまう。筆者は(そして読者も)あくまで外部の観客席に座りつづけたまま、最後のページをむかえるのである。そこに、広告の香具師的本能を対象化することで抑圧・隠蔽された学問的欲望の痕跡がありはしないか。

 北田はおそらく今の日本において、広告に対して最も鋭敏な感覚と知性をもつ社会学者である。その彼の(真の意味で)批判的なスタンスをもつ著作にすら、ひそやかに広告(資本)の作動した痕跡が混じりこんでいるようにみえる。というのも、外部‐内部の距離を擬制し、その差異を利用して駆動するのが近代資本主義であるならば、外部の超越的な視点(学問)からの批判という論述スタイルは、まさにその距離を擬制するものにほかならないわけだから。(余談ながら、その意味で「1)資本、2)批判、3)非記号的な〈私〉という…三つの外部を隠蔽することによって成り立つ広告=都市」(p.102)というのは不精確に思える。「外部を仮構しつつ内部化する」とでも言うべきか。)
 この読みが幾分かでも当たっているとしたら、本書終盤の次のことばは、逆説的に深刻な重みを増すだろう。

 パノプティコン的な支配の終焉。もちろん、それは新たな悪夢の到来にほかならない。しかし、広告が、近代的な空間神話やマスメディアの論理への依存の快楽を捨て切れず、つながりの社会性を捕捉する方法論を見いだすことができないでいる今、私たちは〈来るべき悪夢〉を近代的な空間‐メディア編成の枠内にある批判言語(「公共性・対話の欠如」「資本主義の支配の徹底」など)で理解してしまうのではなく、その〈悪夢〉を正確に捉えるための言語を探すべきなのではなかろうか。
(p.179)

 北田は、この〈悪夢〉にどう対処すべきかという問いに対し、「こうした処方箋を求める倫理的な問いに、安易に答えることは本来許されることではないのだが」と留保をつけつつも、次のような「私なりの解答(というよりはぐらかし)を提示」している。

 私たちに必要なのは、広告の詭計を糾弾する理論などではなく、「私を見よ!」というメッセージを成就させるためには手段を選ばないadvertisement(=広告)がもっている詭計(マッサージの方法論)を身につけ、都市を物語化する欲望とマスメディアの論理にあらがっていくことなのだ。
 したがって、〈来るべき悪夢〉への問いに対して私はこう答えよう。
「広告化せよ! そして広告にあらがえ」
(p.190f)

 だとすれば、本書はもっと広告化すべきだったのではないか。もっと広告的に書かれるべきだったのではないか。そうしたうえで、ウィトゲンシュタイン風に言うならば、広告の本性を「語る」のではなく、「示す」べきだったのではないか。むろん、しかしまたその作業も、デリダ‐東浩紀のしごとにみられるようなある種の必然的な破綻(だがおそらくは意義のある破綻)のつきまとう、きわめて困難な作業になることは避けられまいが。

 あとがきにあるように、本書はもともと教科書となるように想定して書き始められたそうだ。それゆえに、『論理哲学論考』と同様に教育的な役割をはたす──本来は語りえぬものについてあえて語り、語られたことの語りえなさが理解されたあかつきには投げ捨てられるべき「はしご」の役割をはたす──書物であるのかもしれない。しかし、そんな役割をはたす「教科書」であれば、私たちはすでに〈八〇年代〉に『構造と力』を手に入れている。

 この「論考」に記述されている「メッセージ」を、『メディア』(論)的に遂行すれば、そんな教科書以上の『本』になっただろうに。惜しい。これはまた、編集者の責任でもあると思う。

© Daisuke TSUJI