語用論って何?


「語用論」(pragmatics)というのは、一言でいえば、ことばとその意味を、私たちがふだん行っているコミュニケーションの場面にそくして、考えていこうとする学問のことです。

こういうふうに言うと、ちょっと疑問をもつ人がいるかもしれません。ことばの意味というのは、それぞれのことばごとに決まっているものではないのか?あることばのもつ意味が、場面場面で変わってしまうとすれば、私たちはコミュニケーションできなくなってしまうのではないか?「リンゴ」があるときにはリンゴのことを意味し、別のときにはバナナのことを、また別のときにはミカンのことを意味するとしたら、「リンゴを買ってきて」と言われても何を買ってきたらいいのかさっぱりわからなくなってしまうじゃないか?

確かにそのとおりです。ただ、それでもことばの意味には、コミュニケーションの場面ごとに少しずつ違うことがあるのです。まずは、次のような会話をみてください。東京に住む太郎君のところに、大阪にいる友だちの次郎君から電話がかかってきたという場面です。

次郎 「東京の天気はどう?」
太郎 「今、外は大雪だよ」

さて電話が終わった直後、太郎君はお母さんからおつかいを頼まれ、次のように答えました。

母親 「ちょっとおつかいに行ってきてくれない?」
太郎 「今、外は大雪だよ」

太郎君の返事は、どちらの場合もまったく同じものです。
次郎君への返事が意味しているのは、まさに文字通り“今、外では大雪が降っている”ということでしょう。しかし、お母さんへの返事が意味していることはそれだけにとどまりません。言外に、お母さんの頼みごとに対する拒否、つまり“おつかいには行けない”とか“行きたくない”といったことも意味しています。このような“拒否”という意味あいは、どう考えても次郎君への返事の場合にはありません。つまり、同じ「今、外は大雪だよ」ということばが使われていても、その意味は、状況やコンテクストによって、少なからず違ってくるのです。

このように、《 ことば × 用いられた状況・コンテクスト → 意味 》という考え方のもとにことばの意味を研究するのが、語用論です。
一方、それに対して、コミュニケーションの状況やコンテクストに関わりなく決まることばの意味──いわゆる「文字通りの意味」(literal meaning)──をあつかう学問分野のことを「意味論」(semantics)といいます。

したがって、語用論では、《ことば→意味》という一対一対応の考え方──つまり意味論の考え方──では扱えないものが研究の対象になります。先にあげたような言外の意味(厳密には「会話の含み」(conversational implicature)といいます)もその一つですが、語用論のさまざまな研究トピックのなかからもう一つだけ例をだしておきましょう。次の会話をみてください。

「君がこのあいだ見た映画では、どんな動物が主人公だったんだっけ?」
「ああ、ブタだよ」

この返事は、文字通り“私が見た映画の主人公はブタ(という動物)である”ということを意味しているものと考えられます。しかし、次のような会話ではどうでしょうか。

「君がこの間見た映画の主人公は、すごく太ってたんだよね?」
「ああ、ブタだったよ」

こちらの返事は、文字通りのこと(つまり“私が見た映画の主人公は動物のブタである”ということ)を意味してはいません。主人公は人間だったわけですが、それでもこのことばは間違ったことやナンセンスなことを伝えているわけではなく、もののたとえ(比喩)として“私が見た映画の主人公はとても太っていた”ということを意味しています。

ここで重要なのは、「ブタ」ということばが文字通りの意味を失っている、ということです。前にあげた太郎のお母さんへの返事には、言外に“おつかいの拒否”という意味が付け加わってはいましたが、“今、外は大雪である”という文字通りの意味が失われてはいませんでした。しかし今度の場合には、「ブタ」がブタ(という動物)のことを意味しなくなっているのです。「ブタ」がある場面ではきちんとブタという動物のことを意味し、別の場面では意味しなくなる。こんなことでは、「ブタ肉を買ってきてくれ」と言われても何を買えばいいのかわからなくなってしまいかねません。

それでも、私たちは日々それほど混乱することもなく、とりあえずはスムースにコミュニケーションを行っています。これは本当に驚くべきことではないでしょうか?
秒進分歩のいきおいで情報科学・技術が発達する今なお、なかなか人間のことばを完全に理解するコンピュータができないのは、そのためなのです。近頃、人と会話するテレビゲームが話題に上ったりもしますが、こういったものは、実は、ある巧妙なテクニックを使って会話できているように上手にみせかけているだけで、私たちと同じようにことばを理解して返事をしているわけではありません。人間の日常言語や会話一般を理解できるシステムにはまだまだほど遠いのが現状なのです。

少し話がわき道にそれましたが、ことばがコミュニケーションの場面によって文字通りの意味を失うことがある、というこの事実は、ことばの意味というものを考える上で、大きな考え方の変更をせまるものです。それはこういうことです。

ことばが、コミュニケーションの場面に関係なく、いついかなるときも、必ず一定限の意味(文字通りの意味)は保つものであれば、ことばと意味の直接の結びつきを問題にすることができます。つまり、《ことば→意味》という考え方のもとに、この部分に焦点を絞った研究を進めることができるわけです。前に述べたように、こうした研究を行うのが意味論という分野です。この考え方に基づくとすると、あるコミュニケーションの場面におかれたことばの意味というのは、次のように足し算方式で考えることができます。

コミュニケーションの場面に関わりなく 決まる意味
コミュニケーションの場面に応じて 決まる意味

それぞれの場面での ことばの意味

最初に例にだした太郎のお母さんへの返事などは、確かにこの図式におさまります。「今、外は大雪だよ」ということばの文字通りの意味(外では大雪が降っている)+その会話の場面に応じた意味(“おつかいには行きたくない”)=お母さんへの返事の意味、というふうに考えられるでしょう。

しかし、たとえとして用いられた「ああ、ブタだよ」には、この足し算方式があてはまりません。このことばは文字通りの意味を失っているからです。そうすると、この場合には、上の式の最初の項目を消して、次のように考えなくてはならなくなってしまいます。

コミュニケーションの場面に応じて決まる意味

それぞれの場面での ことばの意味

これは、とどのつまり、ことばの意味にはそれぞれのコミュニケーション場面に応じて決まる意味しかない、ということです。しかし、これはどう考えても変です。それぞれのことばが場面に関わりなく決まる一定の意味(文字通りの意味)をもたずに、そのつどそのつどの場面に応じて意味が決まるだけだとしましょう。これは、同じ場面であればどんなことばを用いても同じ意味をもつ、ということにほかなりません。つまり、同じ場面であれば「君が好きだ」と言おうが「私は火星人だ」と言おうが同じ意味になる、ということです。こんなバカげた話はありません。

このように考えると、ことばには文字通りの意味があると考えても、文字通りの意味などないと考えても、行き詰まってしまうことになります。そこで、ことばの意味そのものについて、根本的に考え方を変える必要がでてくるのです。どういうふうに考え方を変えればいいかについては、まだ完全に決着はついていないと言っていいでしょう。(この問題に対する私の見解は、95年に書いた「隠喩解釈の認知過程とコミュニケーション」という論文のなかで述べてありますので、興味ある方はお読みください。)

以上、語用論がどういうことを考える研究分野だか、おわかりいただけたでしょうか?もちろん、これがすべてではありません。他にもいろいろなおもしろい問題やトピックが扱われています。もし興味がそそられた方がいましたら、いくつか入門書もでていますので、大きな本屋か図書館で探してみることをおすすめします。本当の初心者向けに、日本語で読めて、やさしく書かれた本というのはなかなかないのですが、とりあえず最後にいくつか紹介しておきましょう。


An Invitation to Pragmatics, 24 Sep 1999 © TSUJI Daisuke