寄稿「「一七歳」は報道被害者」

※以下は『総合ジャーナリズム研究』に掲載されたものです

「一七歳」は報道被害者

辻 大介, 2002 『総合ジャーナリズム研究』39巻1号, pp.58-59.

 
 私は若者のコミュニケーションや対人関係の変化を研究テーマの一つにしている。そのためもあって、青少年問題を扱った記事や番組はできるだけチェックするように心がけているのだが、最近どうも気になることがある。

 青少年による凶悪犯罪事件の報道をあまり見かけなくなったことだ。一年前(二〇〇〇年)には、あれほど「一七歳」の犯罪が世を騒がせたというのに。

 簡単にふり返っておこう。

 五月一日、愛知県で高三生が老女を殺害、「人を殺す経験をしたかった」と動機を供述。三日、無職少年による西鉄バスジャック事件が発生。一二日、横浜市の電車内で高二生がハンマーで男性を殴打。六月二一日、岡山県で高三生が母親をバットで撲殺。一二月四日、新宿で高二生によるビデオ店の爆破事件。いずれも一七歳の少年による犯行であることが、マスコミに大きく取りあげられた。

 一七歳に限らず、青少年による犯罪の凶悪化が、この数年(特に九七年の「酒鬼薔薇」事件以降)声高に叫ばれ続けてきた。だが、このところは目立った動きがないように思える。さすがに二一世紀を迎えて世紀末現象も沈静化しつつあるということなのだろうか。

 おそらくそうではない。マスコミが派手に取りあげなくなっただけだ。テロやアフガン戦争の影に隠れて一面を飾ることはなくなったが、気をつけてみてみると社会面には相変わらず少年犯罪事件の記事が掲載され続けている。この一年間で実際に少年犯罪が減ったか増えたかは犯罪統計の発表をまたなくてはわからないが、いずれにせよ、実態以上にマスコミによる報道量が大きく変わったことはまちがいあるまい。

 ここで私が問題にしたいのは、少年犯罪に関する報道が減ったことではない。その逆であり、なぜ一年前はあれほどまで少年犯罪を報道することに狂奔し、そして今すでにそのことを忘れてしまっているのか、ということだ。

 警察庁の統計によれば、戦後、殺人で検挙された一〇~一九歳は五一年をピークに(少年人口一〇万人あたり二・五五人)、六〇年代に急速に減少し、七〇年代後半からほぼ横ばい状態にある。二〇〇〇年の殺人検挙者は一〇五人、人口比で〇・七五人と、ピーク時の三分の一にも満たない。前年、前々年と比べてもほとんど数値に変化はなく、むしろわずかながら減ってさえいる。一七歳の殺人に至っては、前年比三三%減(三六人→二四人)である。

 こうした事実がマスコミで報道されることはほとんどない。逆に凶悪な少年犯罪の増加を印象づけるようなデータは好んで取りあげられる。一例を挙げよう。二〇〇〇年八月四日の毎日新聞は、警察庁の発表をもとに「少年の凶悪犯罪1~6月まとめ 殺人容疑53人 昨年同期の約2倍に」と報じている。この上半期だけの比較の無意味さはもはや言うまでもあるまい。先に紹介したとおり、年間を通じてみれば、前年とほとんど変わりはなかったのだから。

 マスコミの犯罪統計の取り上げ方の問題については、すでに同年八月二四日の時点で、教育社会学者の広田照幸氏が詳細なデータを引きながら指摘している(朝日新聞夕刊「メディアと『青少年凶悪化』幻想」)。だが、そのささやかな諫言はやはりマスコミの報道姿勢を変えるには至らず、各紙ともその年末(一二月二二日)にはまた、警察庁の発表した一~一一月期の少年殺人検挙者数を取り上げて、一一年ぶりに一〇〇人を超えたなどと伝えているのである。

 それに対し、犯罪の量よりむしろ質の変化の方が重要だ、という意見もよく耳にする。小学生を殺して首を切り落とすとか、殺人の動機が「人を殺す経験をしてみたかった」だとか、そんな異常な少年犯罪はかつてはなかった、その点にマスコミが大きく取りあげる理由と意義があるのだ、と。

 しかし実は、似たような事件は昔もあった。未成年ではないが、一九六七年に通りすがりの小学生を殺害した二一歳の男は「人を殺してみたかっただけ」と供述している。六九年には、一五歳の少年が同級生を刺殺し、生き返らないようにと首を切り落とす事件が起きている。戦前にまで遡っても、ぎょっとするような少年犯罪の事例はいくつも見つかる。

 ただ、こうした事件は最近のように派手な扱いを受けなかった。六七年の事件は社会面の小さな記事にしかならず、六九年の事件もほとんどは社会面での扱いで、それも「酒鬼薔薇」報道に比べるとはるかに地味だ。そのころ一面を飾っていたのは、冷戦や学生紛争などの記事である。その影になって、こうした事件があったことを人々もマスコミも忘れていった。今、アフガン戦争の影になって、早くも「一七歳」の事件が忘れ去られようとしているように。

 私は少年犯罪の現状にまったく問題とすべき点はない、と言いたいわけではない。詳述する余裕はないが、そこには深刻な時代の病理が映し出されていると思う。しかし、むやみに凶悪化を言い立てるだけの報道は、逆に問題の真相を見えにくくしてしまう。

 視聴率を、部数を稼がんがためのセンセーショナリズム。その背後にあるコマーシャリズム。こうした名の現代病にマスコミ自体も罹患している。それを自覚することなくしては、今後も二次感染が広がるだけだろう。

 無意味な「一七歳」の強調は、凶悪な世代という烙印をすべての一七歳に刻みこんだ。この報道被害に対する責任の重さを考えるなら、「二〇〇〇年に一七歳の殺人は実は減っていました」と報じるところが一社くらい現れてもよいように思うのだが。