寄稿「若者に友達プレッシャー」

※以下は『朝日新聞』に掲載されたものです

若者に 友達プレッシャー

辻 大介, 2008 『朝日新聞』8月2日付(大阪本社版), 8月30日付(東京本社版), 夕刊

 
 「便所飯[べんじよめし]」という言葉をご存知だろうか。昼休みに一緒に食事する相手のいない学生が、ひとりでいる姿を周囲に見られないよう、トイレの個室にこもって食事を取る。そのことを指した若者言葉だ。真偽のほどの疑わしい都市伝説とみなす向きもあるが、どうやら本当にある話のようなのだ。「そこまでしようとは思わないけど、気持ちはわかる」という学生も少なくない。「大学でひとりで食事するなんて、友達のいない寂しい人に見られそうでとても耐えられない。周りに友達が見あたらないときでも、ケータイを使って、一緒に食べる相手を絶対つかまえる」のだという。

 かといって、つねに友達といないと不安になるわけではない。例えば「大学から離れた街中の飲食店であれば、ひとりで食べるのも苦にならない」らしい。私が昨年一〇月に、二〇~四〇代の男女を対象に行った、人間関係に関する意識調査でも、二〇~二四歳の若年層で「ひとりで部屋にいたり食事したりするのは耐えられない」と答えた者は16%にすぎなかった。その一方、「周りから友達がいないように見られるのは耐えられない」という回答は43%に達し、より上の年齢層に比べても高い割合を示している。若者たちが恐れているのは、ひとりでいること自体よりむしろ、そこに向けられるピア・グループ(同輩集団)の視線なのである。

 その視線のプレッシャーの中で、彼ら彼女らは人間関係にかなり神経を遣ってもいる。調査データを分析してみると、「友達がいないように見られるのは耐えられない」者は、「自分のふるまいが場違いではないか」と気にかけ、「何かするときには人の目を考慮」し、「友達と意見が食い違ったら、相手に話を合わせる」傾向が強い。敏感に“空気を読む”と言い換えてもいいだろう。また、「友達のメールにはすぐ返信」するようにしており、「電波の届かないところにいると、何となく落ち着か」なくなりがちだ。

 こうした人間関係への敏感な気遣いは、それ自体が悪いことであるわけではない。「友達がいないように見られるのは耐えられない」者は、募金やボランティア活動への参加に積極的であることも付記しておきたい。これもまた、他者への気遣いの現れのひとつだろう。問題は、その敏感さゆえに、過度なまでの友達プレッシャーがはたらきかねないことにある。

 なぜこのようなプレッシャーが強くはたらくようになったのか。人目を気にすること自体は、以前から日本社会の特徴とされてきたことだ。例えば高度経済成長期には「人並みに車くらい持っていないと恥ずかしい」というように、物質的な面において人目が意識されてきた。しかし物質的な豊かさが達成されると、生活の満足度や幸福感はより身近な人間関係に左右されるようになる。意識の向かう先が人間関係にシフトするのだ。

 その意識は、特に高校までの間は、学級[クラス]を中心とした同輩集団の中に閉ざされ、苛烈な友達プレッシャーと化す。限られた関係の中で友達を作らねばならず、それに失敗した者は、孤独だけでなく、友達のいない変な人という烙印の視線にも、耐え続けなければならない。二重の意味で疎外されるのである。その視線から逃れる場所は、それこそトイレの個室くらいしか残されていない。

 今、必要なのは、学級制の見直しを含めて、子どもたち若者たちが、同輩集団以外の多様な関係を取り結べる環境を整えていくことではないか。友達などいなくとも、人に認められ必要とされる関係はいくらでもある。その相手はひとり暮らしのお年寄りかもしれないし、長期入院の子どもかもしれない。社会は広い。そこにはトイレの個室に代わる居場所が、誰にとっても必ずあるはずだ。