書評『新記号論叢書2 ケータイ研究の最前線』

※以下は『図書新聞』に掲載されたものです

書評『新記号論叢書2 ケータイ研究の最前線』日本記号学会編

辻 大介, 2006 『図書新聞』2767号(3月25日付).
記号論の試金石としてのケータイ

 「新記号論叢書」の一冊として編まれたはずの本書からは、ある種の不協和音が聞こえてくる。そう、ここに収められたケータイに関する11篇の論文とインタビュー、そのほとんどが記号論ぽくないのだ。しかし、本書のおもしろみは、むしろその点にある。記号論という器への盛りこみにくさこそが、ケータイという研究対象の特性を逆にくっきり浮かびあがらせているように思えるのである。

 たとえば、ケータイをテレビ端末化するワンセグ放送に関するインタビュー「ケータイとTV」や、各国のサービス・利用動向を紹介した「日本、韓国、米国のケータイ事情」。マーケティングレポートに掲載されていても何ら違和感のないこれらは、悪く言えば、現象や変化の表面をなぞっているにすぎない。しかし、おそらくケータイという対象に迫るには、そうした薄っぺらさ、表層性がどうしようもなく求められるのだ。

 一方、従来の記号論は、むしろ記号がその深層――暗黙的な文化・イデオロギーの層――において意味するところを読み解くことを得意としてきた。本書には、特集テーマのケータイに関係しない論文も2篇収められているが、その1つ「他者の表象と自己の再構築」などはその端的な例であり、ハリウッド映画を題材に、日本人という表象のもつイデオロギカルな意味の分析を試みている。

 だがケータイは、そうした深層を暴こうにも、あまりに表層的すぎるメディアだ。「起きた?」「まだねむぃ」。こんな他愛もないメッセージのやりとりに、読み解くべき何があるというのか。むしろ、そこでメッセージ(記号)を注視することは、ケータイというメディアの本質から目を逸らすように働いてしまうだろう。マクルーハンの言うように、「メディアの内容がメディアの性格に対してわれわれを盲目にする」のだ。

 粟谷佳司の論文「マクルーハン、社会空間、ユーザー」は、このマクルーハンの警句を引きつつ、それゆえにケータイのメディア論(記号論ではなく)を展開する。立花義遼「マクルーハンとケータイ」、小池隆太「ケータイのテトラッド」もまた、探索的調査に基づきながらメディア論的なアプローチを採っている。E・フータモ「モバイル・メディアの考古学」も、言説の歴史を追いかけつつも、物としてのメディアから焦点を外さない。

 しかし、これらの論考は、実のところ、メディアの媒介する記号からメディアそのものへと視線を移し替えただけで、その意味するところを文化・イデオロギーの深層において探ろうとする構図自体にあまり変わりはないようにも感じられる。その点で言えば、00年代のメディア論は、80年代の記号論の衣鉢をすんなりと受け継いだにすぎないのかもしれない。

 むしろ意味を探ろうとする手からこぼれ落ちるもの、そして、それをあえて記号論的にすくい取ろうとする手つきにこそ、新記号論(叢書)の可能性は求められるのではないか。幸いなことに、そのような方向への示唆も、萌芽的なかたちでではあるが、本書に散見される。いくつか拾い上げていこう。

 冒頭の座談会「パソコン通信からケータイへ」のなかで、山川隆はケータイをコンピュータの小型化とみることに疑問を投げかける。むしろ「ビルの一室に収まってくれていた物が……自分のポケットにまで進出してきていると捉えるべきではないのか」と。つまり、私たちの手の中にコンピュータが収まったのではなく、コンピュータの中に私たちが収められたのだ。

 それは記号の介在を飛び越して、よりダイレクトに私たちの身体にはたらきかけ、空間・場の構成を組み替えていく。記号作用なき空間の再編。原田悦子へのインタビュー「認知科学者から見たケータイ」で語られているのは、まさにそのことだ。テレビ電話に関する実験によれば、対話者たちに同じ空間にいる感覚をもたせるインターフェイスかどうかによって、相互行為のありようがまったく変わってくるという。こうした知見を空間の記号論にどう接続していくかは、今後の重要な課題であるだろう。

 また、「ケータイとユビキタスコンピューティング」のなかで、インタビュイーの北川高嗣は、環境に情報を技術的に埋め込み、ケータイに処理させる構想を語っている。たとえば、カレー好きの人がカレー店の近くに来たら、その情報が自動的にケータイに送られ、表示される。そんなイメージをとりあえず思い浮かべればよい。しかし、それはもはや人間が記号を解釈するというよりも、動物が信号に反応することに近いのではあるまいか。

 水島久光の「ケータイというメディア」は、この問題を受けて、ケータイ的な情報技術が、私たちのおこなってきた記号過程を「『符号』『信号』レベルのトランザクションに代替しつつある」ことを明確に指摘している。その代替の程度が徹底されれば、もはや私たちの身体に意味は受肉しえず、記号の痕跡=信号が残されるのみだろう。水島の問題提起は、新記号論にとって重い課題であるはずだ。

 最後に、藤本憲一の「やましさのイデオロギー」をぜひ取りあげておきたい。この独特のクセのある論文は、ケータイを記号作用の結節点としてとらえ、そこに性の記号としてのやましさが編み込まれていく構造と過程を分析している。この点で、本書では例外的に記号論ぽい論文ではあるのだが、その深層構造の解明に用いられるキーワードに「いいオトナ」「ムカツク」といった薄っぺらな表現が入り混じるのが、何ともおもしろい。ケータイのもつ本質的な表層性がにじみ出たような語り口に、藤本のケータイに対する愛の深さが感じられる。

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