寄稿「デジタルメディア時代の「学校」」

※以下は『放送教育』に掲載されたものです

(21世紀のメディアと教育 ~わたしのキーワード~②)
デジタルメディア時代の「学校」
“school” in the digital media age

辻 大介, 1998 『放送教育』53巻6号(’98年9月号), (財)日本放送教育協会, pp.32-35.

 前回は、デジタル技術の進展が教育メディアに与える影響について、いくつか予想されることを論じた。今回は、メディアというものの意味合いをさらに広くとり、「学校」を一つの教育メディアとみなす観点から、その現状と今後について論じることにしたい。

 学校をメディアというアナロジーで考えることに、奇異な印象を受ける向きもあるかもしれない。だが、メディアというものを単に情報を伝達する物理的なシステムではなく、人と人とのコミュニケーションを媒介し、特定の形に組織する社会的なシステムであると考えるならば、“メディアとしての学校”という考え方もそれほどとっぴなものではあるまい。学校とはまさに、子どもと大人のコミュニケーションを媒介し、それを先生と生徒の間で行われる教育という形に組織する社会システムなのだから。

「学校」という教育メディアの旧弊化

 子どもたちの間で、学校という教育メディアへの嫌悪感・拒否感が強まっている。まず、この事実から確認しておきたい。いわゆる「不登校」の増加が、そのことを端的に物語っている。文部省の学校基本調査によれば、“学校嫌い”が理由の長欠者(三〇日以上)は年々増え続け、一九九七年度には小中学校で一〇万五四一四人に達したという。それに伴って、かつては一部の特殊な子どもの問題とみなされてきた不登校が、もはや「きっかけさえあればどの子どもにでも起こる問題」に変わった(『子ども白書’97』132頁)、という指摘もよく聞かれるようになった。だとすれば、実際の不登校はまさに氷山の一角にすぎず、その背後では大規模な学校嫌いが進んでいることになる。

 なぜ、これほど学校は嫌われるようになったのか?巷でよく言われるように、教育の質が低下し、子どもの心がおざなりにされるようになったせいなのだろうか?おそらくそうではない。教育内容の質が低下し、「心の教育」がおざなりにされてきたことが原因だとすれば、少年犯罪も増えるはずだ。しかし、『警察白書』の統計をみる限りでは、少年刑法犯は十年前に比べて減少しているのである。

 学校の教育内容ではなく、むしろ教育メディアとしての形式に目を向けた方が、問題はよりクリアに見えてくる。そもそも学校は、子どもたちに嫌われて当然の形式をそなえたメディアなのだ。関心や能力、個性のさまざまな大勢の子どもたちが、決められた時間に決められた場所に拘束され、一人の先生から一律の内容と進度で学習を進めるように強いられる。子どもたちには、学習の時間や場所、内容、進度などを、自分なりに選ぶ自由はほとんど与えられない。この不自由さは、ある意味で監獄なみだ。仮に、子どもの好きなメディア──例えばテレビゲーム──が、同じような形式をもっていたとしよう。他の大勢の子どもたちといっしょに、決められた時間に決められた場所で毎日テレビゲームをしなくてはならない。どんなゲームをするかは一方的に与えられ、自分では選べない。そして、どんなゲームも自分の好き嫌いや得意不得意に関わらず、みんなと同じ進度でクリアしていかなくてはならない。これでは、どんな子どもも嫌気がさすだろう。たとえ、どれほど「心のこもった」優れた内容のゲームが与えられたとしても、だ。

 子どもはいつの時代も、そうした嫌気を我慢して学校に通っていたのである。ウソだと思うなら、自分が子どもだったころを想い出してほしい。学校に通わなくていい日曜日や夏休みをどれほど心待ちにしていたことか。それでも昔はまだ我慢できた。それは、学校がかつては、近代社会で通用する知識や技能を得るための、ほとんど唯一の独占的な教育メディアだったからだ。そのためには、我慢してでも学校に通う以外なかったのである。今は違う。塾がいくらでもあり、塾に通わせる金銭的な余裕も親にある。進学塾にせよ補習塾にせよ、自分の能力にあった教育が受けられる。同じ我慢をするにしても、塾の方が自分の身につく教育が受けられるのだ。こうした教育をめぐる社会状況の変化によって、学校はもはや、我慢を強いるだけのきちんとした理由を示せなくなっている。そのことに今、子どもたちが気づき始めたのである。

 いや、知識や技能を得ることだけが、学校の存在理由ではない。集団生活の中で社会道徳や人間関係を学んでいくことが重要なのだ。こうした「心の教育」的反論があるかもしれない。だが子どもたちは、それがおとなのタテマエにすぎないことを肌で感じ取っている。それなら、なぜ依然として教科教育が時間割の大部分を占めているのか?なぜ依然として学歴と偏差値が社会で幅をきかせているのか?親たちはいつも最後には「高校(大学)くらいはでておいたほうがいい、それがお前のためだ」と言って、否応なく受験勉強に駆り立てるではないか?そうしたおとなのホンネを、子どもたちはちゃんと知っているのだ。

「学校」という教育メディアの可能性

 前回論じたように、デジタル技術の進展によって、教育メディアは今後、学習の時間や場所を選ばないものへ、また、各自の能力や関心に応じた内容と進度を選べるものへと変化していくだろう。学校という教育メディアがこの動向に立ち遅れるならば、他の教育メディアとのギャップはますます拡がり、その存在理由はますます形骸化していく。

 ならば、いっそのこと学校などなくしてしまえばどうか。極論だが、そういう考え方もありえよう。しかし、それが望ましい方向だとは、やはり思えない。これも前回論じたことだが、デジタル技術の進展は、教育メディアへの私企業の新規参入を増やし、その結果、教育という場に市場原理をより強く作用させることになるだろう。市場原理は理念をもってあるべき将来へと教育を導くものではない。理念に導かれない教育。それはどう考えても、望ましい教育の姿ではあるまい。

 理念に基づいた教育を十全に行いうる可能性を保つために、私は今後も学校という公的な教育メディアを維持する必要があると思う。問題は、その旧態依然としたメディア形式を組み替えることだ。まず、「教室」単位の授業制度をやめる。教室という場所と集団に子どもを拘束することをやめて、個人単位の学習へと近づける。それぞれの子どもは、それぞれの教科で、自分にあった内容と進度で学習を進められるようにする。しかし、現状では先生の数を大幅に増やさない限り、このような対応は不可能だろう。そこで、デジタルメディアを最大限に活用することを考えるのだ。

 マルチメディア化された教育ソフトには、従来のような教材とは比べものにならないほど強力な学習効果が見込みうる。制作のしかた次第では、学習を補助する教材ではなく、主導する教材となりうるだろう。国が予算を提供し、現場の先生と教育学者がアイデアを提供し、そしてNHKが制作ノウハウを提供して(学校放送番組を長らく提供してきた実績と、税金にも似た受信料を徴収する公共メディアの義務からして、最適任だと思う)、そうした教育ソフトの開発を進めてはどうか。先生にはむしろ、子どもたちの学習のナビゲーター役、補助役にまわってもらう。そうすれば、先生の側にも余裕ができるはずだ。本誌前号の「教育トゥデイ’98」の指摘にもあるように、今の先生は多忙を極めている。いわゆる「燃えつき症候群」の危険な状態にある先生が五割に達するという調査結果もある(大阪教育文化センター『教師の多忙化とバーンアウト』、京都法政出版、一九九六)。一人の先生に大勢の子どもたちを教育する負担を一手に担わせるという、旧弊なメディア形式をもつ「学校」は、教える側にもこれだけの無理を強いているのである。

 知識や技能を身につけさせるための教科教育は、デジタルメディアを最大限に活用することで、他の教育メディア(塾など)と同等のレベルを確保し、学校の存在理由が形骸化しないようにする。また、こうした知識や技能を得るための教科学習は、学校外(例えば自宅)で行ってもよいものとする。デジタルネットワークのインフラ整備が完了すれば、これもそう非現実的な話ではない。これだけでも、多くの知識・技能を大勢の子どもたちに身につけさせる役を一手に引き受け、また、管理監督の目を終日光らせていなくてはならない学校の先生の負担はかなり軽減するだろう。それによって生まれた余裕を、デジタルメディアで単純に代替できないような教育活動を工夫することにあててもらう。子どもに強制するのではなく、その魅力によって子どもを引きつけるような教育を工夫することに。「心の教育」というのが単なるお題目ではないとしたら、こうした制度的な措置を講じて初めて可能になるものだろう。

 いささか絵空事のような話を展開しすぎたかもしれない。私自身、デジタルメディア技術さえ導入すれば学校の危機的現状が一挙に打開できるなどと楽観しているわけではないし、また、学校という教育メディアの問題点についても、紙幅の制限上かなり一面的で不十分な分析しか加えられなかった。ただ、学校という教育メディアの形式がいかに旧態依然としたものであり、その旧弊さが問題の最も大きな根であることだけは繰り返し強調しておきたい。明治五年の学制公布によって日本に「学校」が誕生して以来、既に一世紀余が経過した。二一世紀を目前にひかえた今、私たちは、その教育メディアとしてのありようを根本的に問い直し、組み換えるべき時期を迎えているのではないだろうか。