寄稿「教育メディアのデジタル化」

※以下は『放送教育』に掲載されたものです

(21世紀のメディアと教育 ~わたしのキーワード~①)
教育メディアのデジタル化
digitization of educational media

辻 大介, 1998 『放送教育』53巻5号(’98年8月号), (財)日本放送教育協会, pp.32-35.

  レコード盤に針を落として音楽を聞いていた時代も今は昔。CDから始まったメディアのデジタル化は、私たちの日常生活のいたるところで進みつつある。電話のISDN回線数は倍々ゲームの勢いで伸びており、テレビの地上波放送も二〇一〇年にはデジタル化を完了する方針だという。インターネットなどの新しく登場したメディアは、そもそもが当初からデジタル方式だ。アナログメディアの二〇世紀から、デジタルメディアの二一世紀へ。その良し悪しは別として、私たちは今その本格的な転換期に臨んでいる。

 むろん教育メディアもその例外ではない。CS(通信衛星)やインターネットを介した教育活動は既にいくつも始められているし、CD-ROMや携帯用テレビゲームソフトになった副教材や参考書・問題集、語学教材の類は、コンピュータソフト量販店の一コーナーを占めるまでになっている。こうした動向は今後、教育と教育メディアにどんな影響を及ぼすことになるだろうか?

教育ソフトのマルチメディア化

 その影響にはさまざまなものが考えうるが、私としてはとりあえず次の二点をおさえておきたいと思う。一つは、教育ソフトのマルチメディア化であり、もう一つは、そうしたソフトの制作と流通の容易化である。それぞれ順に説明を加えていこう。

 まずは前者から。「マルチメディア」はかなり曖昧に用いられることの多い概念だが、ここでは“動画・静止画、音声、文字などの情報を統合的に扱うことができ、受け手とのインタラクティビティ(相互作用性)をもつメディア”というぐらいに考えていただけばよい。教育ソフトのマルチメディア化というときにポイントとなるのは、特にこのインタラクティビティである。

 実際に市販されている語学学習用のCD-ROMソフトを例にとろう。本の形態をとる教材では、発音や会話スキットを実際に聞いて学習することはできない。まあ、これだけのメリットならテレビの語学番組でも同じことが言えるわけだが、ここでマルチメディアソフトが独自の強みを発揮するのが、受け手とのインタラクティビティである。苦手な発音や聞き取りにくいスキットをワンタッチですぐ反復できるだけでなく、自分の発音をマイクからとりこんでその波形を表示し、ネイティブの発音と比較することができる。こんなことはテレビではまず不可能だ。また、個人個人の進度に合わせた学習も容易になる。苦手なところは繰り返し、得意なところはとばしていけばよい。ビデオのように巻き戻しや早送りの手間もいらない。詳しく学びたいところは関連情報へのリンクをたどればよいし、インターネットに対応していれば、その関連情報はまさに世界的な広がりをもつことになる。学習段階ごとのテスト・採点も、プログラムしてあれば自動的に行ってくれる。

 さらに今後の可能性について考えるなら、よくわからないところやさらに知りたいことについて質問し、回答をもらうシステムもたやすく実現しうる。インターネットやパソコン通信を介して、ソフト提供者側の用意した宛先に電子メールを送れば、専門家から回答が返ってくる。技術的には現時点でもこうしたシステムを組むことにとりたてて障害はない。また、通信回線のインフラ整備が完了したあかつきには(いわゆる「情報スーパーハイウェイ」)、テレビ会議風に、自宅にいながらにして擬似対面的なレッスンを受けることも十分可能になる。つまり、近い将来には、コンピュータが一台ネットワークにつながっていれば、教室での授業・レッスンと各種教材による自習すべてをひっくるめた学習、しかも場所と時間に拘束されない学習が、物理的(技術的)条件としては可能になるということだ。

 語学学習に限らず一般化して考えるならば、このことは、「学校」のような決められた場所に決められた時間に集まって学習する必要が物理的条件の上ではなくなる、ということを意味している。むろんそれは、みんなが一つの場所・時間に集って学習すること──すなわち学校制度──の社会的・教育的な必要性とは、まったく別の問題である。しかし、翻って言うならば、仮に一つの場所・時間に子どもたちを押し込めて学習させることの弊害の方がむしろ大きくなってきているとすれば、現行の学校制度を大幅に変更・解体しても、学校のになう教育そのものは維持できるような物理的条件は整いつつある、ということなのである。

 これは次回のキーワードをとりあげるときにも一つのポイントとなる論点なので、ひとまず念頭にとどめおいていただきたい。

教育メディアの多チャンネル化

 教育メディアのデジタル化による影響のもう一方、教育ソフトの制作と流通の容易化という点に移ろう。今や、市販のデジタルカメラでもプロ画質の映像が撮れ、市販の編集機器でもプロ並みのテクニックを盛り込んだ編集ができる時代になった。それをインターネットで流せば、個人でも世界に向けた「放送」が可能だ。デジタル技術の普及は、ほんの5年前ですら想像できなかったほど、メディアソフトの制作とその流通経路の保有を容易にしたのである。このことは当然の流れとしてメディア産業への新規参入を増やすことになる。今のテレビ産業がよい例だろう。地上波放送局の各社は、電波の希少性という名目のもとに長らく既得権益を守り続けてきたが、CSデジタル放送の登場が事情を変えてしまった。CSの視聴者は地上波とは比較にならない数のチャンネルを選択できる。その選択幅の拡大、いわゆる「多チャンネル化」によって、どれくらい従来のパイが食われることになるのか?放送関係者の間で多チャンネル化の議論が喧しいのには、こうした懸念が背後にある。

 教育メディアについてもまた、やはり新規参入が増え、多チャンネル化が進みつつある。かつてテレビの教育放送と言えばNHKと放送大学と相場は決まっていたが、CS放送の稼働とともに大手予備校が早々に教育放送(受験向けではあるが)を開始したことは周知のとおりである。また、これまで教育とはおよそ無縁だった警備保障会社がオンライン学習サービスの提供に着手したことなども耳目に新しいところだろう。今後も各種の新規参入はますます増加し、教育産業における競争が激化していくことが予想される。こうした競争激化そのものは、教育あるいは教育界にとって好ましからぬものではあるまい。教育用ソフトの種類が増えるのは単純に歓迎してよいことだろうし、また、競争力のないソフトへの淘汰圧がはたらくことで平均的な質の向上が望めるからだ(いかにも優等生的なNHKの教育番組ももう少しおもしろいものに変わるかもしれない)。むしろ問題はその先にある。

 そこでの競争を支配しているのは、市場原理である。営利目的原理、あるいは金もうけ主義と言い換えてもいい。それが教育に関わる場にこれまで以上に強く作用することになるのである。市場原理によって、使われないソフトは姿を消し、よく使われるソフトだけが生き残っていく。娯楽ソフトであればそれでもいいだろう。よく使われるソフト=おもしろい優れたソフトという等式がある程度成り立つからだ。しかし教育に関しては、よく使われるソフトが、必ずしも教育的に優れたソフトであるとは限らない。現状でよく使われることになりそうな教育ソフトがどのようなものであるかを考えてみればよい。硬直化したカリキュラムの消化に追われ、各教科の知識を子どもに詰め込むだけで手一杯の教師によく使われるのは、知識を効率的に詰め込んでくれるソフトだろう。依然として熾烈な受験戦争に追われる子どもたちによく使われるのは、受験勉強を効率的にこなせるソフトだろう。建前がどうあろうとも、それが本音であるはずだ。

 そうした本音を金に変えるのが市場原理である。知識詰め込み型教育や受験教育の弊害を指摘する声がいかに高くても、それがただ今の現実であるならば、市場原理はその現状を追認し「メシのタネ」に変える。そして、知識詰め込み型の受験教育という点でも、マルチメディア化された教育ソフトは、先に述べたような特性ゆえに、おそらくこれまでの教材や参考書などとは比べものにならないくらいの強みを発揮するにちがいないのである。こうした中でいかに教育メディアが“多チャンネル化”しようとも、それが提供されるソフトの“多様化”につながるかは疑問だ。教育はいかにあるべきかなどといった採算にのらないことは省みられることもなく、そもそも根本の部分では一様化されている教育メディアが乱立するだけの可能性も多分にある。

 市場原理は「~である」現状を追認し加速するものであって、「~べき」将来へと方向づけうるものではない。その結果、「~べき」という教育(メディア)の理念性はこれまで以上に急速に形骸化しかねない。教育メディアのデジタル化による影響として、筆者が最も懸念するのはこの点である。

 次回のキーワードは「デジタルメディア時代の『学校』」。今回論じたことをベースに、いくつかの提言を織りまぜながら、さらに論を進める。